神は細部に宿る

テンペストのDVD4枚目を見た。

もうなんというか呆れていたので、話題を変えて年末の報道のことを思い出し、日本のマスコミ(だけとは限らない)についても呆れてみよう。

 

内容は単純だ。中国で呉冠英という人が亡くなったという報道だ。

話題にしたいことには直接関係ないが、この人は2008年の北京オリンピックのマスコットキャラクターをデザインした人で、日本での報道内容は、

中国メディアが呉冠英さんの死因を重症かぜを報じた。それに対して中国の視聴者は新型コロナで亡くなったのを重症かぜと言い換え、嘘をついているとメディアと政府に不信感をもち、怒っているというものだ。

 

このとき、日本のニュースでは呉冠英をウー カン エイと発音していた。

呆れた。

外国の固有名詞の読み方については、様々な流儀というかこだわりがあり、なかなか難しいものがある。

例えば、韓国の大統領だった金大中は、かつては日本国内のニュース報道や新聞・雑誌・教科書では「キン ダイ チュウ」と日本の音読みであった。

ところがある時期から「キム デ ジュン」と韓国語読み(に近い発音・表記)になった。現在もそうである。

好みや意見があるためどちらが正解というものではない。ここを深掘りするにはそもそも漢字とは何かを論ずる必要が出てくるので、ここでは措く。

しかし、もし金大中を「キム ダイ チュウ」とか「キン デ ジュン」と読んだらおかしいだろう。

呉冠英を「ウー カン エイ」と読むのはそういう類なのだ。

中国語読みなら「ウー クワン イン」。日本の音読みなら「ゴ カン エイ」だろう。

こういうささいなことをいい加減にするからダメなのだ。

 

日本のマスコミ批判はしたいが、まず信用ができない。

そして、いい加減だから信頼もできない。

その意味で中国やアメリカの報道機関(右でも左でも)の方が信頼できるだけ、よほどマシだ。

 

もちろん、このいい加減はドラマや映画作りにも通じているだろう。

テンペスト すべてに違和感

テンペストのDVDを毎日1枚みてる。

ということで、今日で3枚目を見た。

色々と違和感があったが、そもそもストーリーにも軽いアレルギーが出始めた。

架空の登場人物や無茶な設定はともかく、たとえば尚泰王の即位が14歳であったり(実際には4歳、かぞえで6つ)、史実自体も改変がなされている。

そして、なろう小説の主人公並みに孫寧温が無双していることにもイライラしてしまうのだ。

汚職などを平気でするようなことはあっても、唐語が理解できたり、それなりに視野が広い役人はいたはずだ。

また、時代的制約や政治的制約の影響もなく、デカルトを理解したり、王制を終わらせようとしたりするのもおかしい。

つまり、現代人が超常的な霊力の加護を受けて、尚育王末期の琉球に現れたようなものだ。霊力の加護は物語の前提として飲み込むが、なぜ現代人のような思想思考の人物なのかは説明がつかない。

なんなら異世界転生ものの方が、異世界から来たと説明があるだけ無双状態を飲み込むことができる。

タイトルは忘れたが、以前、江戸時代の少女と父が、幕府はやがて終わるから(少女が)自立できるように学問するのだとのたまった時代劇があった。

あの時の違和感もひどかったが、そもそも時代劇にそういうものが多すぎる。

その意味で中国の反日戦争映画を笑えない。ベクトルが違うだけで、ありえない解釈をして歴史改変をしている点では同じだ。

とはいえ、せっかくレンタルしたし、DVDもあと2枚だけだから最後までみるけど。

仲間由紀恵の演技はどの作品でも変わらない気がする

元日も変わらず、トイレに行ったり来たり。

お昼にゲオに行きがてらブックオフに行ったら、開店は13時だとある。

で、トイレに行こうとコンビニで時間をつぶして、13時6分にブックオフに戻ったら、もう満車で駐車場がない。

なんなら、車列が道にあふれ出している。

無理して今日である理由もないので、ブックオフはあきらめてゲオへ。

借りていたDVDを返却し、テンペストサンドラ・ブロックの「選挙の勝ち方教えます」を借りてきた。

 

テンペストの1枚目(全部でDVD5枚)を見た。

琉球王国の尚育王の頃が舞台で、ベッテルハイムが出ていた。

主演は仲間由紀恵だ。

が、違和感がある。

ストーリー部分はいい。フィクションだし、そこについては構わない。

ゴジラ映画に、そんな生き物いねーよといっても始まらない。

問題は台詞まわしや、撮影場所などだ。

もちろん時代劇の台詞は難しく、完全に当時の言い方にしてしまうと視聴者が理解できないし、といって完全に現代語にするのもおかしい。ではと折衷して当時の言い方と現代語を混ぜると違和感が無視できなくなる。

テンペストはまさにそれだ。

現代日本語と沖縄方言、しかも首里方言かあやしかったり、現代の沖縄方言とおぼしきものもある。

明確にすべてを指摘できないが、違和感がひどかった。

撮影についてもおなじく、本物を使ったというのであろうが、正直、よくこんなところで撮影したなと思うことが多かった。

逆説的に、皮肉なことだが、首里城の映像が残ることになりよかったではあるが。

考証がおかしいのかと思いきや、高良倉吉と上里隆史とある。

まあ、某金丸を主人公にしたドラマよりもマシともいえるが、五十歩百歩ともいえる。

タイトルにしたが、仲間由紀恵の演技はどの作品でも変わらない。

キムタクや藤原竜也みたいなものか。

ともあれ、あとディスク4枚、見ることは見よう。

ストーリー自体は面白いのだから。

2023年(令和5年)になって

去年は持病の憎悪による体調の悪化。

また、体調そのものは持ち直しても年末の怒涛の便失禁の嵐に苦しめられた。

特に大晦日(つまり昨日というか、これを書いている午前1時現在からみて10時間前)の便失禁はひどかった。

新年は、多少病状というか体調が好転するといいなあ。

 

また、22年間住んだところを引っ越した。

12月にようやく新しいところを契約できた。

主に不動産屋に不満がないわけではないが、どうも千三つ屋とはよく言ったものだ。

新しい部屋自体は、住めば都というものだ。

 

2023年(令和5年)は、絶賛止まっている企画を進めて終わらせたい。

そして、かねてより取り組みたいと思っていたことを始めたい。

1.現代語訳

2.日本語訳

3.調べてまとめる

詳しくは書かないがこの3つの企画を形にしたい。

 

何はともあれ激震の2022年(令和4年)に比べて、新年が良い年になりますように。

というか、去年より悪くなるのも難しいか。

なんて書くとフラグをたててしまったりして(皮肉な笑い)

輪るピングドラム劇場版

輪るピングドラムの劇場版、前後編ともに観た。

 

まず、去った27日にブックオフ村上春樹アンダーグラウンドをみつけ、110円だったので買った。

これはオウムの地下鉄サリン事件の被害者たちのインタビュー集である。

そもそも村上春樹を読んだことがなかったが、輪るピングドラムをみて「かえるくん、東京を救う」を読むために『神の子どもたちはみな踊る』を読んだ。

アンダーグラウンドは図書館で冒頭の数人分だけ読んだが、そこで止まっていた。

で、ブックオフでみかけて買ったというわけだ。

 

そして、昨日30日にゲオで輪るピングドラムの劇場版をみかけ、新作も(1泊なら)110円だったので、借りてきた。

ちなみにゲオに行ったのが19時近くということもあり、ほかのアニメ、映画、ドラマを問わず新作は軒並み借りられていた。

その意味で輪るピングドラムが残っていたのは嬉しいではあるが、、、。

 

寝る前に前篇を、起きてから後編を観た。

総集編に新しいシーンというか、ストーリーを付け加えたものだった。

体裁としては、運命の乗り換えをした後、冠葉と晶馬は子供の姿(施設にいたころの姿)になり記憶をなくしていた。自分たちが何者なのか、どうしてここにいるのかが分からなくなっていた。中央図書館空の孔分室でプリンセス・オブ・ザ・クリスタルとなっている桃果に「カエルくんピングドラムを救う」を読むように仕向けられる。曰く、これはあなたたちのことが書かれた物語だというふうに。

そしてその物語を読むことが、つまり総集編となっていく。

 

観ているときに思ったり、観終わったときの感想はさておき、

今回は励ましや救済を前面に押し出していた気がする。まず桃果扮するプリンセスの台詞が「きっと何者かになれるお前ら」であった。

陽毬のときは「きっと何物にもなれないお前ら」であったのに。

また、運命の乗り換えをして、別世界に行った(つまりこの世界からは消えた)二人を描き、最後には水族館に戻ってこさせたのも、何があっても(つまり犯罪を犯しても、あるいは死ぬほどつらいことがあっても)その後があり、人生は続くということを示唆している気がする。

 

で、幾原作品を解説しても仕方ないので(否定的な意味ではなく、本来的な意味で見た人の数だけ解釈や受け止め方があるため。ただし、合わなかった、つまらなかったという人は別として)、ササっと思ったことを書く。

 

まず、総集編かよ!ってことである。

そもそも大河ドラマの総集編しかり、アニメの総集編しかり。これは本編を見た人のためのものであって、いわゆる新規の人には向けていないのではないか。

もちろん新規が総集編に手を出すかという疑問も同時に存在するのだが。

しかし、本編を「まとめた」のではなく、「省略」したというふうに思える。

 

そして、新しく作られた部分だが、このピングドラムに関しては正直いらなかったのでないかと思った。

本編でももちろん救済などをテーマにしていたが、本編ではもっと厳しめで、ぱっと見では救済されたのか?と思えたのは事実だ。

おそらく本編から11年が過ぎ、社会情勢はますます厳しくなり、以前のような伝え方では伝わらない、あるいは逆のメッセージを与えかねないと思ったのか、直接的に救済、励まし、愛情を伝えていた。

その結実がラストの子供時代の姿になった登場人物たちの「愛してる」連呼になったのだろうが、エヴァンゲリオンのありがとう連呼のオマージュに思えて(おそらく間違いないだろうが)気持ち悪かった。

 

上に社会情勢はますます厳しくなりと書いたが、

本編が2011年(東北大震災の年)に公開され、内容が1995年の地下鉄サリン事件の関係者を扱ったものであった。

ちなみに1995年には阪神大震災も起きている。

劇場版の公開は2022年4月29日と7月22日であり、レンタル開始が12月23日(ゲオ)であった。

ちなみに同年7月8日に安倍晋三銃撃事件が起きている。

 

制作開始時期を考えれば偶然なのは明白だが、安倍晋三銃撃事件により、宗教二世を描いた作品であることの意味ももう一枚乗っかったと思える。

 

さて、最終的な感想なのだが、

一流シェフのつくった手抜き料理(しかも余計な工夫をした)を食べさせられた感じがする。

本編の総集編なら、いっそそれだけでよかったような気がする。

なんなら、開き直って解説に徹するとか。

いちばん望ましいのは完全新作(新エピソード)だが。

上で書いたように、伝え方が変わったが、それが本編の印象まで変えてしまいそうで嫌だった。本編が辛さの中に甘みがあるカレーやキムチ、インドネシア料理のようなものだったとしたら、これはそれに砂糖やはちみつをかけてしまったような。

しかし、元が一流シェフだから食べれてしまう(つまり見れてしまう)。が、やはり前の方がよかったなあと。

 

新年はアンダーグラウンドを読もう。

映画「ドライブ・トゥ・ヘル」と女の子のアクション映画

2019年のブルガリア映画「ドライブ・トゥ・ヘル(DRIVE to HELL)」を観た。

内容よりもまず、2019年の作品が2022年の今頃準新作レンタルってどうなんだ。

上映や配信状況が分からないが、日本公開は相変わらず遅い。

 

ジャケットや煽り文句からとてもメチャクチャで爽快なものを想像していた。

なにせジャケットは、炎上する車をバックに銃をかかげる女(ボーリャ)とサングラスをつけホットパンツにTシャツを右手でまくり上げ左手に銃を持つセクシーな女(ミラ)で、煽り文句が「すべてが快感!!」だ。

タイトルも頭が悪い。DRIVE to HELL(地獄へのドライブ)だ。

 

実際に観てみると、確かに動機というか、物語の発端は猛烈に頭が悪い。

が、現実にもありそうというか、映画や小説としては洋の東西を問わず何度も使われてきたものだ。

要するに、女(ボーリャ)が恋人(と思っているが妻子持ちの男。実は男からしたら遊びの浮気)に噓のような(嘘の)理由(姪が心臓の病気で来週にも手術しないと助からない)で金を貸してくれと言われ、それを工面しようとして、、、

というやつ。

最初、ボーリャとミラが友人と気づかなかった。てっきり恋は盲目状態の母と堅実にしかしつまらない生活をおくる娘かと思った。西洋人の顔は分からない。

が、ともかく、そうして物語は展開していく。

爽快感は少ししかなかったので、あるいはこれはタイトル通り地獄へいく、救いのないバッドエンドへの鬱展開かと思ったが、そうでもない。

不思議なことにだんだんとグッとくるというか、何かこう、感動ではないが胸にくるというか、脳裏に何かがよぎるというか、主人公たちに気持ちを寄せてしまう。

空港で逮捕されるとき、ボーリャが撃たれた(という仮定のシーン)はさすがに驚き、泣きそうになった。違っていて本当によかった。

最後は何となく爽やか風におわったが、ミラはともかく、ボーリャはどうなんだろう。

ボーリャもハッピーエンドにしてあげてもよかったのではないか。

自業自得といえばそれまでだし、発端もボーリャのせいでミラはこうなったんだからといえばそうだろう。

また、ダメ男や社会の制約のない自由な人生を手に入れたといえばそうだが(実際、マーティンを一度逃がした駅前のシーンでは、何かが起きるのを待っている人生から行動して何かを手に入れる人生に変わったのよ、みたいな発言をしている(うしおととらの外伝で婆さんに化けたとらが若い頃の木曾義仲の愛人、巴に言ったセリフみたいだなと思った))、しかしそれは結局、社会からはじき出されただけとも言える。何となく途中で電話番号を交換したトラックドライバーに連絡するような含みがあったが、なんか微妙にさみしい。

ミラの方はマーティンがいて、本を出版するという夢も叶えているだけに、その対比で余計にさみしくなる。なんなら刑事と結ばれてもよかった気がする。刑事もカーチェイスの場面で惚れそうだと言っていたし。

 

物語の最初の方でテルマ&ルイーズみたいというセリフがあったが、確かにテルマ&ルイーズのようではある。

 

個人的には140分は長いとは思うが、つまらなくはなかった。名作とはいえないまでも面白く観れた。また、個人的にブルガリア語が若干わかったように錯覚でき、キリル文字をつかっているから、作中の道路標識や看板などが読めたのも嬉しかった。

ただし、これをコメディと思って観たらつらかったと思う。実際感想サイトにそういう人が何人かいた。自分がアメリカンレポーターを観た時と同じように感じるだろう。

コメディというには笑える要素が少ない気がする。ロードムービー、ややコメディあり悲しい恋と哀しい友情ありといったところか。

 

ひと月ほど前にみた中国映画「デンジャラス・ベイビーズ」の感想を書いていなかった。こちらはストーリーは、まあ、まじめに考えるだけ野暮だった。

美人さんたちがコスプレまでいかないくらいのかわいい衣装で、アクションをするのを楽しむ作品。

そう割り切ればとても楽しい映画。女の子のアクションが好きなら間違いなく何度か見たくなる。

ストーリーが凝ってないから、おかしなストーリーでも気にせずに済む。その意味で邦画の「血まみれスケバンチェーンソー」なんかは負けてしまう。

あれは中途半端にストーリーがあるのがもったいなかった。

アナザーラウンド(泥酔先生)

アナザーラウンドを観た。

 

公開時に少し話題になったので、気になっていた。

内容は

4人の男性教師たちは、それぞれに生活に行き詰っていた。それは家族生活であったり、仕事である教師として生徒指導や授業であったり。それを何とかするために飲酒をして血中アルコール濃度を常に0.05 %(後半ではさらに濃度を上げる)に保つようにする。そうしたら、、、

という話だ。

要は中年の危機をアルコールで解決しようというのだ。

 

基本的にコメディ路線であり、そう思って観れば悪くはない。

しかし、そう割り切って見ることはできない。

まず、主人公のマーティンは結局妻アニカ(と子供)を失ってしまっている。最後に復縁をほのめかしているが、ラストまでずっと別れたままである。この夫婦問題は結局シラフの時と酩酊状態の時の差で破局したようなものだ。もちろん、酒を飲まなければ一緒に暮らしているものの事実上破綻している状態ではあったのだろうが、、、どちらがよかったのか。また、トミーが応援していると励まし、またマーティンとアニカのメールのやりとりでも「トミーもぼくらのことを応援している」「私もそう思う」とあったが、トミーと二人の関係も分からない。4人組のうち、他の2人だってマーティン夫婦のことは知っているし、応援をしていたはずだ。

また、そのトミーが亡くなってしまった。自殺で。トミーは家族もなく、職員会議に泥酔状態で参加してしまい、おそらくそれがトリガーになったようだった。

その他にも、結局、酒では解決してない(むしろ悪化している)ことがあったり、そうかと思うと留年している生徒のセバスチャンの口頭試問は飲酒で順調にいったりしている。

ともかく、後半は(常時)飲酒はダメだなとストーリー的にもなってきていたのに、最後は卒業生とともに大量に飲酒して海に飛び込んで終了、スタッフロールへ、、、。トミーが死んだのは海に飛び込んだはずなのに、、、。

そして、いちばん納得がいかないのが、授業ができないから飲酒して臨むというもの。学校のありかたが日本とデンマークでは違いすぎるので単純比較はできないが、これはだいぶ疑問だ。しかも、主人公のマーティンは若い頃研究者を目指していたとか、4人はこの飲酒行動を、一応、論文にしようとしていた。事実上この論文の章が作品のパートとなっている。

結局、飲酒によって彼らの中年の危機は解決しなかった。トミーに至っては、文字通り、命を捨てている。

戦争こそ関わっていないが、

ハッピーエンドではない(ある意味ではハッピーエンドなのか?)

体制や社会常識に逆らっている

などの点でアメリカン・ニューシネマ的ともいえるが、どうも難しい。

また、デンマークが高校生の飲酒が普通であることや、アニカの台詞にあった「どうせこの国の男はのんだくればかり」などデンマークのことが気になることは気になる。

 

結局コメディとして笑うには後半が重すぎるのだ。ブラックジョークにすらなっていない。