point of no return

少し前に、部活の県外遠征のためのマイクロバスが事故った事件があった。

バスに乗っていた生徒のなかに死亡者がでたり、バスを運転していたドライバーが、マイクロバスどころか、普通の軽自動車ですらまともに運転できる状態ではなさそうだったこと、そしてドライバーに報酬が支払われていたのかボランティアなのかなど学校側とドライバーの紹介をしたバス会社の言い分が食い違っていること、その他にも不可解かつ不適切なことが多い事件であった。

そのため、報道各社の報道は過熱しており、2カ月前に起きた辺野古で、反基地活動家のせいで高校生が亡くなった事件のときとは違い、積極的に学校とバス会社を批判している。

 

少し話がぶれた。別に陰謀論者やマスコミ批判をしたいわけではない。

 

このマイクロバスの事故は、つきつめて起きた事件だけを見たら、要はただの事故だ。

そして、いくつかの要素に分けると

・高齢ドライバーによる事故

・部活動の遠征や送迎

・その際に事故などが起きたときの責任の所在

などが問題であろう。

 

わたしは、この事故そのものについては、あまり興味がない。

だが、この事故で感じたことは、おおげさに書けば、日本の衰退(劣化と言い換えてもよい)だ。

高齢ドライバーの問題は、池袋の事故ですら2019年と7年前のことだ。

部活動の遠征事故は、大分県の高校が甲子園の開会式に向かう途中で、やはり死者を出した事件が2009年。17年前だ。この時はバスを運転していたのは副部長(教員)で、彼は逮捕され、実刑を受けた(今、ネットで検索しても逮捕はでてくるが、実刑で何年収監されていたのかは出てこない)。

何が言いたいのかというと、日本ではだいぶ前から指摘されていたり、問題化していたことが、まったく改善されてこなかったということだ。

付け加えれば、昨今の学校現場の劣悪な労働環境による教員不足や、成否はともかく教員の働き方改革の流れなどもあわせて、教員の負担を減らしていこうと言っている。

この事故の後、文科省は部活の移動手段について、適切なものを考えるように指示を出し、千葉県や福岡県などでは、原則として公共交通機関を使うように指示を出したという。

県内ならばそれもいいだろう。しかし、今回のような県をまたいで行く場合(今回は新潟県から福島県に向かう予定だった)、まず公共交通機関がある県ばかりではない。例えばだが、山梨県から群馬県へ遠征するときはどういう交通手段があるのか、文科省なり県の教育庁や教育委員会に教えてもらいたい。

また、その費用はどうするのだろう。

結局従来通り、教員にバスを運転させる。その際は手当や保険などの事務処理が面倒なので、書類を書かず(書かせず)にやらせ、万一事故が起きたら、大分県の事故の時のように、学校側は知らぬ存ぜぬ(事実書類がないのだから)教員が勝手にやりましたとなるか、今回のように知合いの業者なり個人に契約のかたちを「取らず」あいまいな形で運転させるのだろう。これもきちんと業者を選定しようとしたらアイミツを取ったり、費用の捻出をしたりしないといけないなど面倒だからである。

さて、こんな状態で誰が教員(というか部活の顧問)になどなりたがるものか。

 

繰り返しになるが、高齢ドライバー問題。部活動の引率、特に遠征ドライバー問題。教員の過重労働問題。

これらはどれも少なくとも10年以上言われていたことだ。

そしてどれも改善どころか、しょぼい改善策を打ち出してきたのが、やっとここ数年だ。

だましだましやってきた制度が、一度壊れてだますことすらできなくなってきている。それが今の日本だろう。

埼玉県八潮の道路陥没事故は1年4カ月経ったが、いまだに復旧せず、円安による資材高騰などもあって恐らく予定よりもさらに時間がかかるだろう。

指摘されながら放置されてきた少子高齢化問題。氷河期を見捨てたことによる影響。その他にもあるが、今回のバス事故で、日本はもう、一見うまくいっているようにとりつくろうことすら難しい国になったのだなと感じた。

ある評論家が、歴史から学ぶことは色々あるが、ある時点を過ぎたらどんなに有能な人にもどうしようもないことがある、ということを知るのが一番重要だと言っていた。

その時の具体例では1945年の7月にタイムスリップして、原爆投下や日本の敗戦を止めてみろみたいな話だったと思う。

その意味で、今の日本は有能な、あるいは英雄的な人物が出たら改善できるのか、それともすでにどうしようもない時点を過ぎてしまったのか。

色々と思う所の多い事故であった。

ボランティア募集

ツイッター(現X)で、某北国の県立図書館のボランティア募集という記事があった。

そして、それに対して専門職である図書館職員をボランティアでまかなうつもりかという怒りと嘆きの中間のようなツイートもあった。

 

あわせて、某南島の国立大学図書館でもおなじようなボランティアを募集している。

そこは、土日については時給が発生するようだ。

 

この図書館ボランティア問題は、正直にいえば好きにしたらよろしと思っている。

あまりにも問題点があり、それぞれが絡み合っているので、どうしようもない。

一応、その問題点を列挙したい。が、解決は無理だとあきらめている。

 

まず、図書館職員は専門職だという意見についてだが、これは賛成したいが、全面的には賛同しがたい。

まず「職員」は、司書以外も含むのかどうかだ。たしかに司書は専門職だろうが、配架業務しかしないのであれば、司書であろうとなかろうと、専門職とはいえないだろう。

件の北の県立図書館ボランティアも、活動内容は

「資料配架
利用者から返却された本を、書棚の正しい場所に戻したり、本を記号順に並べたりする活動です。

利用案内
館内施設や書棚の場所、または利用方法など、利用者からの簡単な問い合わせに対応する活動です。」

とある。つまり、専門職は求めていないのだ。

そして、司書の専門性は、非常に理解されにくい。配架は上記のとおりだが、その本をどこに配架するか、置き場所を決めるのは司書の専門性が発揮されるところだ。が、分野を限れば司書よりも詳しい人はいくらでもいる。

また、利用者からの問い合わせのなかで、いわゆるリファレンスについても、司書の専門性が問われるが、これも司書だからといって、すべてのリファレンスに答えられるわけでもない。さらに、明らかにバイトみたいな司書にめんどくさいリファレンスをしようとする利用者も多くはないだろう。

つまり、司書は専門職ではあるが、専門性を求められているとも限らないのである。

もちろん、これは歴史的に図書館の司書が、そういう意味で役立たずだったから、いちいち聞いても仕方がない。彼ら彼女らは単に本の片づけと、貸出と返却の手続きをするだけだ、という負の経験の積み重ねの証拠でもある。

 

さらに、現場の職員からすれば、貸出は自動貸出機でできるとして、返却と配架(新蔵された本や返却された本を本棚に配置すること)、閉架書庫からの取り出しなどは、機械にたよるわけにはいかない。必ず人手が必要だ。利用者の少ない小さな町村の図書館や学校図書館ならいざ知らず、利用者が多く、規模が大きな図書館は、職員の人数が必要になる。

たとえば、一人はカウンターで貸出や返却、利用者対応をし、残りは書架に行くなどである。

しかし、現場の職員は、かなしいかな、人事権も予算権もないのが普通だ。そのため、バイト未満の業務を限ったボランティアでもいいから、人をいれてくれということであろう。

 

そして、図書館設置者(地方公共団体や学校)からしても、こんな施設は不要だと考えている節がある。しかし、それを大っぴらに言えないから、やむをえず設置しているが、なるべく金(や人)をかけたくないという意思が見え見えなことがある。

そのため、給与を出して職員を集めるのはダメだが、ボランティアなら図書館が好きにしてよいというように考えているのであろう。

 

ほかに、応募する人たちも問題はあるが、要は日本全体で図書館とはなんぞやという問題を放置しつづけた結果、日本全体の経済・労働の状況悪化も相まって、このようなお粗末なことになったのである。

図書館のボランティアに限らないが、治せるはずの病気を放置した結果、他の病気とあわせて合併症となり、手遅れになったようなものだ。

 

かつて、日本の図書館数が800くらいのとき、アメリカでは5万ほどであった。

人口比はアメリカが日本の倍くらいであったのに、図書館数の比率が上記のようだったことを紀田順一郎が、アメリカには図書館がゴマンとあるが、日本には図書館もどきの嘘八百しかないと嘆いていた。

さて、図書館をとりまく状況は今後どうなるだろうか。

ホスピタリティー以前の問題

ある国の保険副大臣が、

多くの国民が治療のために海外に渡航していることから、毎年約1兆五千万円の外貨が流出していると明らかにした。副大臣は、医療現場のホスピタリティー(おもてなし)不足を背景に、患者が外国での治療を選ぶ傾向にあると分析した。

とのことだ。

なお、通貨と国の名前をいじってわからないように加工した。それは、これから猛烈に悪口を書こうと思うからだ。

 

まず、副大臣の言うとおり、かの国の医療現場にはホスピタリティーが足りない。ただし、そのホスピタリティーは制度的なものと、各職員の個人的な性格的なものとがある。だから、例えば看護師ひとつとっても、同じ病院なのに本当に優しい方もいれば、ぶん殴ってやろうと思うような奴もいる。また、優しい職員が申し訳なさそうに、そういう仕組みになっているから、対応できません、ごめんね。と言ってくることもある。

そのため、ホスピタリティー云々は原因のひとつではあるが、ささいなことだ。

 

実も蓋もないことを書けば、なぜ海外に治療に行くか、その原因は医療技術が低く、信頼がおけないことと、金額が高すぎることの2点に集約される。

そもそも、かの国の医者は特権階級であり、白い巨塔がいまだに続いている。日本だと、そうはいっても民間の総合病院や個人クリニックではあまり尊大な医者は少ないが(あくまで診察や検査時のはなし。友人や家族、同じ職場の上司としては別の話)、かの国ではミニ白い巨塔があちこちにある。

といっても、若い医師はそうでもなく、気さくで親切な人も多いという声もあるだろう。その通りだ。しかし、彼らはまさにその気さくさが馴れ馴れしいに変わり、また、その馴れ馴れしいと医師という特権階級の合わせ技で時間にルーズな医者が誕生する。

まず、予約時間にいない。また、診療時間内に個人的な用事で外出する。といったことが頻発する。医師は医療業界ではトップなので、看護師や事務職員がそれをとがめることはない。

その上で、医者になった後に勉強し続ける奴もほぼいないので、医療技術が向上しない。技術以前に病気も知らないことが多い。たまに知っている医者がいて、なぜあなたはその病気のことを知っているのですか?とたいがい失礼なことを尋ねると、答えは海外で勉強したか、家族にその病気の患者がいて、海外に治療にいったかどちらかだ。

余談的に書くと、医大でのカリキュラムと病院のシステムの問題だから、すべてを医師個人のせいにはできないが、レントゲン写真を読めない医者が多い。読めないは言い過ぎかもしれないので正確を期すと、きちんと読めない医者が多い。レントゲンは撮影後、それを読影する専門医が見て、コメントをつけて担当医に渡すことになっている。よっぽど日本のナースや救急救命士などコ・メディカル向けの、これで大丈夫レントゲン読影みたいな本をプレゼントしてやろうかと思った。

日本でも、MRIなどをすれば、技師のコメントがついて画像が担当医に渡される(最近だと電子カルテに貼付される)ことが普通だから、決して担当医以外が読影することが悪いのではない。しかし、時間がかかる(はやくて翌日)ことと、担当医が読影しない(先のMRIの例では、日本の医者なら自身でもMRI画像をみて確認するだろう)ことが問題なのだ。

時間がかかるため、レントゲンをとってその日は終了となる。そして、その担当医の次の出勤日に予約をとっておいてね、と言われて帰宅となる。なお、かの国ではレントゲン写真は持ち帰りできる。というか、患者に渡される。病院で保管をしていない。いや、保管している病院もあることはあるが、多くない。そのため、次回以降、きちんとレントゲン写真を持参しないと、あれ?レントゲン撮ってないの?じゃあ、今日はレントゲンを、、、となることもある。

具体例を書いていったらキリがない。

ともかくも、当たり前だが、医療に求められることは怪我や病気が治ることだ。

それが治らないまたは、治ることが期待できないのだから、それはきちんと治せる海外に行くに決まっている。

そして、マーフィーの法則にも、医者は治せなくても金を取るとあるように、ゼニはきっちりと取られる。それがまた高いのだ。

病気にもよるが、記事中にあった外国(本当は国名が書いてあるが、それは書きません。あしからず)に往復して、ホテルに泊まって手術して帰国しても、自国で手術するより安くて、医療技術に信頼がおけて、さらにホスピタリティがあるのだ。

海外にいかない理由がない。

 

さらにまだ問題はある、

医療技術に関連して、かの国では都鄙格差(都会と田舎の格差)がひどく、地方でいちばんの総合病院でも治せないから、首都へ連れて行けなどということもザラにある。

もっとも首都へ連れて行けと言ってくれればまだマシで、地方のヤブ医者が、知ったかぶりして誤診することも多い。

そして、カネについてふれる。

まずどの病院もいつも満員だ。ひとつはかの国では医療保険制度のおかげで、かなり安価または無料で診察を受けることができる。

と書くと、素晴らしいようだが、この制度も当然良い面と悪い面がある。ここでは触れない。

ともかく、病院にいくハードルは以前ほど高くはない。

しかし、この制度で安く医療を受けようとすると、時間がかかる。たらいまわしされる。そして、品質(というのかな?)を選べる場合は基本的には低級のものしか選べない。ということがある。

例えば、白内障手術では、レンズのクオリティが何種類かあるが、この制度ではいちばん下の品質のレンズになる。

しかし、ここで、レンズだけはこの保険制度を使わずに、自費で品質のいいレンズを買うということもできる。

そして、病院や医者にどういうふうにカネが落ちるのか、詳しいことはわからないが、この医療制度を使わずに、全部自費で受診したいというと、早く治療してくれるうえに、サービスが良くなる。

病院によってはこの医療保険制度は(国の政策にも関わらず)使えないこともある。ある病院は、去年10月までは使えたが、11月から使えなくなった。ますます、医療機関や医者へのゼニの(略)。

また、医者への贈り物をするとしないとでは、明らかに診察態度が変わる。

そりゃ、同じ高いカネ払うなら外国に行くわな、と思う。

 

少し長くなってきたが、あと2点お付き合いいただきたい。

まず、宗教と人種の問題だ。

かの国では医療機関でも宗教が決まっている。もちろん他の宗教の患者を排斥することは、表面上はない。しかし、宗教が違う患者は病院食やその他、細かいところで不満がたまることが多い。

この宗教には人種の問題も絡む。つまり、この人種はこの宗教であることが多い、またはあの宗教には入らないことが多いなどということがある。そこで、宗教を理由にして、実際には人種によって待遇を変えることが多い。

前述の医療保険制度でも、多数派の人種の人はたらいまわしに会うことは、他人種に比べて少なく、診察や手術までの時間も短い(というか、他人種にたいして時間がかかり過ぎている)。

 

もう1点は、患者の問題だ。

これまで医者または医療制度をあげつらってきたが、患者の方にも問題がある。かの国の国民は一般的に信心深い。これは迷信深いとも言い換えることができる。そして科学リテラシ―が極端に低い。まず、日本だと中学校の理科で学ぶような知識は期待できない。

そのため、根っこのところで医者というか医学を信用していない。これは実際に上述のように信用できない医者も少なくないということもあるが。ともかく、患者たちは怪しげな民間療法にすぐ頼る。田舎ではよく分からない植物(や下手をすると鉱物)の入ったクスリを飲むことも多い。もちろん身体に悪い。

そして、仮に医者が医学的な説明を丁寧にしたとしても無駄であろう。彼らはそれを理解できない。そのくせ、即効性のあることだけ望むので、田舎では前述の怪しげなクスリになり、都会ではインチキ医療器具が飛ぶように売れる。しかも腹が立つことに、そのインチキ医療器具のほとんどは日本の名を騙った中国の会社のものだったりする。

(ちゃんとした)薬の値段が高いこともあるが、たとえば自己免疫疾患を気の持ちようや、お祈りまたは波動なんとかで治そうとすることもある。もちろん治らない。

そういう国でよくあるように、かの国でも(病院の調剤薬局ではなく民間の)薬局の薬剤師は信用できるし、信頼されている。売れ筋の商品はイコールよく効く薬ということだから、はずれることは少ないし、色んな患者の話を聞いているから、下手なヤブ医者(あ、ダブルミーニングだ)よりも詳しかったりする。患者も医者とちがって、気軽に話しやすいので、より正確に詳しく説明できているということもあるだろう。

ただし、ここでも注意が必要で、決して薬剤師が悪いわけではないが、彼らは症状をきいて、薬をすすめてくる。けっして病気にたいして薬を選んでいるわけではない。そのため、同じ症状でも異なる原因、異なる病気であるということを患者側が知っていればいいが、、、(諦)。

 

長くなったが、かの国から外国へ医療サービスを受ける人が続出するのは、決してホスピタリティーの不足が主原因じゃないということをつらつらと述べてきた。

3776文字も書いた。疲れた。

スーパー戦隊終了について

スーパー戦隊シリーズが現在放映している、ナンバーワン戦隊ゴジュウジャーを以て、いったん終了する。

一時期は出演者の不祥事のせいで終わるかのようにも報道されていたが、どうやら、それはたまたまタイミングが悪かっただけで、実際にはシリーズ終了は不祥事以前から決まっていたようだ。

 

戦隊ものが好きな身としては寂しいが、シリーズ終了自体はそこまで寂しくない。

もちろん、続けてくれるならそちらのほうがよい。

なにせ1979年のバトルフィーバーJから途切れることなく続いてきたのだから。継続は力なりという格言どおり、続くということは、それ自体が価値をもつからだ。

この文章を読んでくれている方の中には、スーパー戦隊はゴレンジャーからじゃないのか?と疑問を持つ方もいるかも知れないので、補足しておくと。

秘密戦隊ゴレンジャーが1975年から1977年まで2年間放送された。2年間放送された戦隊ものはゴレンジャーだけである。

そしてその後をうけてジャッカー電撃隊が1977年に放送が始まるが、同年の12月に打ち切りになる。放送途中で打ちきりになった作品は、ジャッカー電撃隊がただ一つである。

それから1年強放送はなく、1979年にバトルフィーバーJが始まり、以降現在まで続いてきた。

なお、この休止期間にテレビ東京東映スパイダーマンを放送しており、これは巨大ロボ(名前はレオパルドン)が登場する。バトルフィーバー以降巨大ロボが登場するのは、スパイダーマンで視聴率とスポンサー、特におもちゃの売り上げが伸びたからである。

なお、現在はスーパー戦隊はゴレンジャーからカウントして、スパイダーマンは除外することになっているが、実はそのように確定したのは2000年放送の未来戦隊タイムレンジャーからである。それ以前はバトルフィーバーJからカウントして、ゴレンジャーとジャッカー電撃隊は除外して、名称が「スーパー戦隊シリーズ」、「戦隊シリーズ」であったり、ゴレンジャーとジャッカー電撃隊を加えて「超世紀全戦隊」としたり、ちぐはぐであった。

名称もジャッカー電撃隊バトルフィーバーJは○○戦隊というのが付いていない。

また、ゴレンジャーからカウントすることになったので、今作ナンバーワン戦隊ゴジュウジャーのうたい文句でも混乱が生じている。具体的には放映開始何周年とゴレンジャーから数えて何作目というのが合わないのである。

ゴジュウジャーはゴレンジャー放送開始(1975年)から数えて放送50周年記念作品のため、ゴジュウジャーという名称だが、作品としては49作目である。

ファンの間では2018年放送の「快盗戦隊ルパンレンジャー VS 警察戦隊パトレンジャー」を2(ふたつの)戦隊とカウントして、ゴジュウジャーは50戦隊目ということにしているようだ。それに異論のある方々もいるが、ここでは触れない。

 

長い補則だったが、実は本題で触れたい話題が出て来た。

スポンサーの売り上げである。

今回のシリーズ終了報道で悲しくなったのは、その理由である。管見の限りだが、みなスポンサー(おもちゃ)の売り上げ低迷と、結果的には違ったが不祥事がシリーズ終了の理由とするものばかりだった。

無論、スポンサーは売り上げがのびることを期待して、スポンサードするわけである。それは分かる。しかし、シリーズ終了に際してファンたちの意見以外では作品の内容や、作品が見られているかどうかという議論がほぼ見当たらなかった。

中には、(シリーズ終了を)嘆くくせに金を出さないファンのせいで終わるというような意見も散見された。

 

仮の話だが、例えばトレンディドラマやサスペンスドラマ、またはドラマ以外の番組でもこのような意見がでるだろうか?おそらくは出ないだろう。

少子化テレビ離れなども含めて、視聴率が参考にならない(というより、壊滅的に低い)。また、ソフト化や配信などで視聴している方は、その行為自体で(テレビで見ることに比べたら)お金を払っている。この上さらにおもちゃを買うとなると、、、

 

私も解決策があるわけでなく、単に寂しく思っているだけだ。

スポンサーに頼る、構造そのものが変わらない限り遅かれ早かれシリーズは終わることになっただろう。

上にも書いたように、それは寂しくても仕方ない。

しかし、その際にゼニの話ばかりで作品の内容を振り返る人がいないのは、哀しいなあ。

愚策とすら言えず、困惑

高校数学のカリキュラムについてニュースがあった。

下に朝日新聞の無料部分を引用する。

 

高校数学、科目の構成見直しへ AI関連を重視 文科省が提案
植松佳香2025年11月14日 18時00分

 行列や微分積分など、AI(人工知能)やデータサイエンスにつながる内容を多くの生徒が学べるよう、高校数学の科目の構成を見直す方向になった。国は理系の知識を備えた人材の育成を急ぐ方針で、その具体策の一つになりそうだ。

 次の学習指導要領を議論している中央教育審議会文科相の諮問機関)の算数・数学の作業部会で14日、文部科学省が示した。

 文科省は、AI技術や数理科学、データサイエンスの仕組みを理解する基礎として行列、微分積分、確率、統計を重視する。

 だが、今の学習指導要領では、行列は数学C、確率は数学A、統計は数学Bなどと科目がばらけている。

 また、数学Ⅰは必履修だが、数学ⅡやⅢ、数学A、B、Cは選択科目。AIなどに関連する科目を、あわせて履修しづらい状況だ。

 文科省は、数学Bの履修者は45%、数学Cは34%と推計。学ばない生徒の多くは私大文系の志望者とみる。そこで、学ぶ内容を今より柔軟に選べるように選択科目の構成を見直す方針だ。

 次の学習指導要領は、高校は2032年度ごろの導入が見込まれている

 

引用ここまで。

愚策なのだが、そもそも実質的な影響はないかもしれない。

読めば読むほど、意味がわからなくて味わいがあるニュースだ。

 

まず、数学に限らないが、選択科目が増えたのは大きくわけて、2つの(建前上の)理由がある。

1つは、高校生(受験生)の負担が大きすぎる。色々な科目を勉強させて、消化不良になるよりも、興味のある科目を選択させて、きちんと習得させようというもの。

もうひとつは、自分(高校生)に必要ない科目を勉強させるのは無駄である(なにせ必要ないのだから)。そのため、必要ある科目を選択させて学べるようにしようというものだ。

 

つまり、1つめは時間は限られているので、過度な負担はなくそうということ。

2つめは不要なことを勉強させずに、有用なものだけを学ばせようということだ。

 

ところが、ここで大問題があった。

それは一部の学校を除き、まず学校が科目を選び、次に(まだ選べるなら)生徒が科目を選ぶのである。

例えば、理科が分かりやすいが、

まず学校が本校は化学、生物と物理を履修できる(地学は履修できない)と選択する。

ついで、この例では化学、生物、物理をどう選択させるかは学校の裁量に任せられている。

つまり、化学を必修にして、生物と物理から1つ選択させるとか、

3つすべてから1つ選択させるとか、

理系希望は化学と物理、文系希望は生物のみとか学校の提示した選択方法から生徒は選ぶことになる。

 

特に数学は、大学受験を考える高校なら、Ⅰ、Ⅱ、A、Bは事実上必修扱いであろう。

本当にⅠしか履修しない高校は、ほとんど大学進学しない通信制定時制くらいであろう。

さらに、AとB、Cは科目自体も選択科目だが、ややこしいのは、次の点である。

それぞれ4章(4分野)ある。そのうち履修するのは2分野であるとされている。

もちろん3分野ないし4分野すべてを履修してもいいが。

さて、履修する2分野は上記の理由で各高校(の数学科)が選択している。

つまり、数学Aで平面幾何を学びたくても学べない生徒や、逆に平面幾何を学びたくないのに学ばされるような生徒が存在することになる。

なお、Ⅰ、ⅡとⅢは、履修するなら、すべての章(分野)を学ぶことになっている。

 

前置きが長くなったが、前掲のニュースで報じられた計画が意味不明なのだ。

それはこの部分だ。

 

 行列や微分積分など、AI(人工知能)やデータサイエンスにつながる内容を多くの生徒が学べるよう、高校数学の科目の構成を見直す方向になった。国は理系の知識を備えた人材の育成を急ぐ方針で、その具体策の一つになりそうだ。

 

引用中に太字にしたが、この多くの生徒が学べるようという所が分からない。

上記の理由で、仮に高校生が、そのAIやデータサイエンスにつながる内容を選びたくても、その生徒が通っている高校がその内容(分野)と別の内容を履修させるようにしていたら、生徒は履修できないのだ。

これは単に教科書の内容の入れ替えや再編成では解決しない。

高校のすべての科目について、卒業に必要な単位履修の規定を変えなければいけないのだ。

あるいは、仮に希望する生徒がたったひとりの科目でも、必ず開講することという規定をつくるかである。ただし、これは教員の数が膨大に必要である。まず、単純に選択科目すべての教員が必要であり、ただでさえ成り手がいない学校現場では取りえない方策である。

 

また、引用中の二つ目の太字部分「理系の知識を備えた人材の育成」も意味が分からない。

理系人材を育成なら分かる。ただ、それなら大学の理系学部または(AIやデータサイエンス分野なら)工業高校のカリキュラムを変えればいいことだ。

もし、分野を選ばずとにかく理系というなら農業高校も含めればいい(経済学も理系だという欧米の基準に従うなら商業高校も理系であるべきだが、、、日本では文系扱いなのでここでは除く)

それが、理系の知識を備えた人材というよく分からない表現だ。

これは高卒でAI分野に従事する労働者を増やしたいということか?

その際、理系の知識を備えているかどうかの担保はどうするのか?高校の履修科目をチェックするのか、新たに資格を設けて取得または一定以上の点数を取らせるのかなども問題であろう。

仮になにもチェックしないなら、労働者にとってはありがたいが、それなら現状のカリキュラムを変える必要もない。せいぜい分かりやすい参考書や動画なり、文科省教育委員会主導でAIやデータサイエンス分野に必要な講習でもすればいい。

 

やはり、何度読んでも消化できない、味わい不快もとい、味わい深いニュースだ。

さすが、文科省の諮問機関。一般人には理解できないような立派なことを考えているな。

 

最後に私の予想を付け加えると、仮に一度選択にした行列、微分積分、確率、統計などの分野を必修扱いにしたら、(いわゆる私立文系志望者を中心に)単位を落とす高校生や、それを救済する(ということにして面倒を避ける)ために甘々なテストで単位をあげる高校が続出して、それこそ目もあてられない日本の惨状が可視化されるであろう。

豊臣滅亡

2016年の大河ドラマ真田丸」を観ている。

堺雅人演じる真田幸村が主人公で、クライマックスは大坂の陣である。

とても面白く観ているが、物語はその大阪の陣前夜、牢人衆が大阪城に入りガチャガチャしだしている。

このあたりで観ることがつらくなってきた。

豊臣の滅亡まっしぐらに突き進むことがキツい。

 

ふと考えた。武田や北条の滅亡はきつくない。

この2家を引き合いに出したのは、どちらも「真田丸」で描かれているからだ。

もちろんドラマで扱われた話数は、武田滅亡が2話。北条滅亡もどこからカウントするかにもよるが、約5話。豊臣滅亡は、10話ほどである。

話数と同時にドラマでの重みも違う。

同時に、ドラマとしてではなく、歴史上の流れや物語としても豊臣滅亡はキツい。

 

なぜかを考えたら、武田・北条は情勢や当事者たちの失策などで敗れたが、あくまで勝者と敗者のあいだでルールというか、前提が共有されている気がする。

卑近な例を出すと、彼らの滅亡はスポーツの負け試合のようである。強弱や練習量、戦術のかみ合わせなどはあれど、同じスポーツのルールを共有し、かつ同じカテゴリ(中学生同士、高校生同士、プロ選手同士のような)での勝負に思える。

しかし、豊臣と徳川はそうではない。

豊臣方の人材のなさや、淀君(秀頼母)や大蔵卿局など女や、織田有楽斎のように戦にでることのない者たちに支配されている感じが、他の家の滅亡と違うように感じる要因だろう。

これは大河ドラマであるし、もともとの私の知識もいわゆる物語からくるものが多いとしても、豊臣家の非戦闘員と徳川への内通者が上層部にいるということがやるせない。

不適在不適所が極まっている。見てられない。

しかも、秀頼にたいする淀君の母の愛が、この場合は滅亡(つまり秀頼と自身の死)を加速している。

つらたん。

関わっても得がない

X(ツイッター)で、現代の勉強できない子供についてのツイートがあった。

最初の段落がそのまま要約になっていて、

「今の勉強できない子は、能力の低さよりも無気力によって自立が見込めない事の方が問題」である。

以下の段落はその説明が書いてある。

 

内容そのものには、基本的に間違っていない。

しかし、私には少し違和感がある。違和感の正体は、ツイートのニュアンスだと思う。

先回りして書いておくが、これは私の方が正しいとか間違っているとかではない。感じ方や解釈の問題である。「今の子」のように総体はともかく、Aくん、Bさんのように個別の事例では、このツイート主のニュアンスと、私のニュアンスの中間グラデーションが該当するであろう。

 

さて、そのニュアンスは何かというと、このツイートではうっすらと、今の子たちの方が悪いという感じがする。

もちろん、目の前に無気力な子がいたら、その子が問題ではある。それはよく分かる。ただし、「今の子たち」となると、そういう子たちを作ったのは誰なのか、という思いがある。

昔でも当然無気力な子供はいた。自分でものを考えることもせず(または出来ず)お膳立てされるがまま、流されるままに生きていく者もいた。

人数はわからないが、おそらくそういう生き方をした(またはせざるを得なかった)子の割合は、今と変わらないのではないか。

しかし、現在とちがい、当時は社会全体が善し悪しはともかくお節介で強引で、過干渉であった。

もちろん、そういう社会がオールOKなわけはなく、少しずつ改善されてきた。

その結果、めんどうな奴には関わらないという冷たい大人が増えた。

これも大人サイドにすれば、訴訟リスクや、逆恨み、徒労などを避けるために必要なライフスキルである。

そうなると、無気力な子供たちは以前と違い、放置されることになる。

子供の問題は、大人の問題なのであると思う。