「君の膵臓がたべたい」を読んだ。
もはやブームも去ったため落ち着いて読める。
まず、文体が読みやすく、サクサクと読めた。
まず、単純な感想を列挙すると、
すごいなこりゃ。
予想通り泣ける。
ご都合主義。
いつの作品だっけ?
などだ。
まず、いつの作品だっけ?については、ヒロインのハルヒ感がすごかった。
そこで、涼宮ハルヒが出たあとの作品だとは思うが、どうだっけ、という意味だ。
ちなみに君の膵臓は2015年(平成27年)の作品であり、ハルヒの1巻は2003年出版だった。
また、平成中期から後期だな、と思うのは主人公とヒロインのキャラクターだ。
基本的に、ある段階までどちらも自分の考えを変えない。我を通すとも相手に感化されることに抵抗している場合もある。
しかし、主人公の根暗で自分勝手、腹が立つくらい人に気をつかわないなど、平成初期までなら、まず主人公にはなれない。
ヒロインも先にハルヒと書いたように、素直というよりわがまま、周りを振り回すタイプ。似ているヒロイン像として真夏の太陽のような芯のある精神的に自立した女性というのは昔からあるが、ハルヒ以降は芯があるというよりわがまま、真夏の太陽のように周囲に活力を与えるというよりは、砂漠の太陽のように周囲を疲弊させるタイプのヒロインが増えた気がする。といっても中高生に芯があり、精神的に自立して周囲を励ますヒロインを求めるのもどうかと思うが。
そして、この2015年は、不況の中で、一瞬だけそれまでより好景気になり、東京オリンピックまであと5年だったり社会に明るさが戻ったタイミングであった。むろん現在からみれば、それが回復につながらなかったのは見ての通りだったのだが。
学校現場も、主人公のようにクラスメートの名前をひとりも知らないなどという生徒が増え始め、それを堂々と口にするようになり始めたころだ。それ以前でも、そういう生徒はもちろん存在はしたが、それはおかしいというのが共通認識で、とても公言はできないのが普通であった。
ちょうどその過渡期で、主人公に設定するのによいタイミングだったのだろう。
文章については、先に書いたが、読みやすかった。
しかし、ある時期から内容を問わず、小説がワンテーマで読みやすいラノベ化が起きた気がする。もっともラノベの定義もぶれぶれではあるが。
文字数があれば良いわけではないが、せっかくお金を出して買うなら文字量も内容もスカスカなものは遠慮したい。
ただし、その読みやすさというかラノベ感が、高校生の一人称による心情描写ですすむ内容にマッチしていたともいえる。
物語の構成はとても良く考えられている。
しかし、よく出来すぎていて、読んでいて初期のRPGのように、無駄がなく、際立ったご都合主義が鼻についてきたのも事実だ。
もちろん物語の本筋に全く関係ないことを、バンバン書いていいとは思わない。それが持ち味になっている司馬遼太郎などは例外として。
とはいえ、あまりにも無駄がなく登場人物の登場も、彼らのふるまいもあまりにピタリとはまり続けていて、意外性がほぼなかった。作者の構成力にたいしての信頼が悪い方にあるというか。
そして、賛否や好き嫌いの分かれるのは、やはりヒロインの死因だろう。
そして、その死因についても驚いたが、それに対してさえきっちり伏線が張ってあったことにも驚いた。
むろん、物語の流れ上、予想通り号泣したし、同時にさめざめとも泣いた。
この物語は、先述のように主人公とヒロインの性格が、いわゆる普通とはかけ離れているので、爽やかな高校生の青春劇またはラブ・ストーリーとはとても言えない。
だからこそ、逆に普通の高校生や若者たちの心をつかんだのだろう。
あくまでラブ・ストーリーの文法では主人公はダメなやつだ。そしてヒロインも一般的な幸せな恋をしているとは、周囲からは見えない。
これはイタリア映画の「道」を想起させる。ザンパノとジェルソミーナの物語の一変種ではないか。
そう思ったら、この物語がストンと腑に落ちた。
現在(2023年、令和5年)の中高生たちはどう読むのだろう。
おなじく、将来の中高生がもし読んだらどう思うのか。少しく気になる。
物語の初期に主人公とヒロインが焼き肉の食べ放題を食べる場面がある。
すでにタイトルの膵臓を食べるの食べたいのということも台詞にバンバンでてくる。
さらに肉やホルモンを食べる描写のおいしそうなこと。
焼き肉かレバスタが食べたくなった。