鎌倉殿の13人 壇ノ浦までをみて とりとめなく

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を、壇ノ浦の戦いまで見た。

 

放映当時、北条義時の闇落ちダークヒーローぶりが話題だった。

考えてみれば、闇落ちということであれば、アナキン・スカイウォーカーがダースベイダーになった物語があり、

闇落ちでもあるが、状況に対応していくうちに、元々望まぬ方向へ進んでしまった人物ということであれば、ゴッドファーザーのマイケル・コルレオーネの物語がある。

北条義時も、以前は陰険極まりない、非人間的で非情な自家の保存しか考えていない人物とされてきた。

 

また、木曾義仲の息子、義高を殺したのち、義高を討ち取った藤内光澄が死罪になったことを知った政子に対して、義時の台詞として

 われわれはもはやかつてのわれわれではないのです

というのがあった。

基本的に闇落ちしていくということは、変化をしていくということなので、かつてのままではなくなるということだ。

この大河のテーマのひとつが、北条義時の闇落ちであるなら、このかつてのわれわれではなくなるというのが、ストーリーの基底に流れ続けている。

上総広常の殺害や壇ノ浦の戦いなどは分かりやすく、変化の画期になるであろう。

 

壇ノ浦の戦いのあとで、明確に印象付けられるのは、

目標が達成されたのちの虚無感、またもはや引き返せないところに来てしまったという恐れと諦めなどだ。

これは日本人の好きなものなのであろう。

特に、滅びの美学的な、成功に対する潜在的な嫌悪感などで心の琴線に触れるのであろう。

司馬遼太郎坂の上の雲が典型的であろう。

苦労してようやくたどりついた坂の上から見えた景色は、のちに昭和の敗戦に続く下り坂だったというものだ。

壇ノ浦の戦い後に見えた風景は、あるいは様々な解釈もできるだろうが、もはや戻れないところに来てしまったというのは実感できた。

 

この大河ドラマで描かれている鎌倉時代初期の殺しあいが、妙に好きになれない、特に頼朝の視点では。

それは、新選組の粛清の歴史にも通じる。

つまり、殺すがわの都合はあっても、殺されるがわにとっては理不尽極まりないということだ。

例えば、いわゆる戦争であれば、殺すがわ、殺されるがわ双方に理由はある。もちろん殺される時に納得できるかは別としてだ。

ところが、粛清は理由ではなく、都合しかないのだ。

それが爽やかさを感じない原因であるし、殺されるがわの方に立っても悲劇にもならない。なぜなら、理由なく都合で殺されるのだから、通り魔にあったのと変わりがないからだ。