そもそも彼に議員でいてもらうことが一部のマニアックな人たちにしか益しないような無駄じゃないのか

件の三角関数に限らず、日本では「役に立たないものはやめろ」ということをいう人が多い気がする。

正確なデータはないが、恐らく戦後ひどくなってきたのではないか。

 

バブル崩壊後、国の財政を建て直すために無駄を削れという声が大きくなって、まわりまわって大学の研究でも無駄な研究をするな、

せめて無駄な研究には公金で補助をするな、無駄な研究をするような研究者には(国公立の大学や研究機関なら)給料を出すな

などの意見まで聞かれるようになってきた。

 

バブル崩壊以前も、おそらくはそういう意見はあったのだろうが、経済的な余裕と、学問的・ビジネス的な成功に支えられてそういう意見はメジャーにはならなかった。

 

少し前置きが長くなったが、この無駄なことはするな、役に立つことだけしろという考え方で大失敗した(しつつある)ことを2つだけ書いておきたい。

 

1つは、日本、中国、朝鮮半島ベトナムなどでかつて栄えた本草学である。

本草学とは、現代風にいえば薬草学である。

儒学の影響をうけた地域では非常に栄え、李時珍の「本草綱目」は高校の世界史で学ぶ。また、琉球の質問本草は日本の本草学の総まとめのような名著である。

薬草学としての本草学は発展しつくしたが、残念ながら現在はほぼ継承されずに廃れてしまった。

むろん、薬学や、植物学の中の薬草学などに受け継がれたともいえないこともないが、、、。

なぜ、廃れたのか、それは西洋の博物学(のなかの植物学)に負けたのである。

植物学は薬草かどうかは無関係に植物の研究をする学問だ。

それに対して、本草学では薬草でない植物は基本的に扱わない。

しかし、その時代には毒にも薬にもならなかったが、後に(現代科学で)ある成分だけを抽出すれば薬になるものや、薬を合成するときの反応のスタートになる物質を含んでいるものなどがある。

それらは、後に分かることであり、発見当時にはわからなかったものである。

そして、本草学ではそういう植物はそもそも記載されないのでデータがない。つまり、後になって研究するときはよく言えばまっさらな状態、悪く言えば何もわからないのである。

その結果、西洋科学が入るまでは相当に高いレベルに発展した本草学は、歴史の中でその歩みを止めてしまった。今はもう過去にそういう学問があったと、まるで恐竜の化石のようにその痕跡を残すのみだ。

もしも、どこかの時点で本草学から東洋的な植物学に変わっていったらと思う。実は(きれいな)花だけを研究する植物学はあったのだ。ここにも役に立つもの(きれいな花)だけ研究して、いわゆる雑草などは研究しないという態度がでている。

 

もう1つの事例は、最近の(特に理系の)ノーベル賞についてである。

いつからか、日本政府は大学などの研究機関に予算をつける際に

選択と集中

ということを言い出した。これは、役に立つ成果が出そうな研究を選択し、そういう研究に予算や人材などリソースを集中しろということである。

予算自体の額が少なくなってきていることは大問題だがさておく。

この選択と集中は、いってみれば、宝くじを買うときに

当たりくじ10枚くれ

とオッサン(別におばさんでも若い奴らでもいいが)が言うのと同じことだ。

おっちゃんと宝くじ売り場のおばちゃんなら、多少うんざりする笑い話ですむが、

研究のリソースでは、笑い話にはならない。

研究者たちの人生設計にかかわるような労働環境としての研究環境の劣悪さも問題だが、これも措く。

要は成果の出る研究などは事前にわからない

ということが分かっていないのだ。

また、先ほどの本草学のように、その時は役に立ってても廃れてしまう分野や研究もある。また、原子力関係のように突発的な出来事で人気がなくなり、結果的に下火になるものもある。

また、数学の虚数の概念は、できた当初は何の役にたつのか、相当に疑問に思われていたそうだ。しかし、のちに量子力学量子化学が発達したら虚数を抜きには議論ができないことがわかってきた。さらに量子力学は研究している研究者自身ですら、何だこりゃ?と思っていたらしいが、現代科学では量子論なしにはなりたたない。

また、遺伝学もそうだ。列挙していくときりがない。

上の例では量子力学以外はすべて高校の普通科で学ぶ(ことになっている)。

さて、話を戻すと、日本はノーベル化学賞や物理学賞を連年受賞していたが、やがて(近い将来)それが止まり、受賞者がでなくなると予想されている。

それは、つまり選択と集中して、成功し続けるならいいが、当然そうはならない。

そうすると、ほかの「役に立たない」ことを全くやっていなければ、もう何もできなくなるのだ。

学問だけではない、スポーツでもなんでも取り組んでいる(たしなんでいる)人の数と、取り組み方の多彩さがその発展を支えるのだ。

その時は無駄であっても、ほかの何かと組み合わさって役にたつものになることもあるのだ。

 

三角関数を学ぶのが専門的で役に立たないとしても、

投資するためのタネ銭がない人にとっては、金融経済学などを学んでもまったく役に立たない。その意味ではどちらも同じだ。あるいはサバイバル術でも学ぶ方が役に立つかもしれない。

要は何が役に立つかは人によって違う。特に若いうちはどのような進路にすすんでも困ることが少ないように広く学ぶことが重要なのだ。

無知の知にならえば、無用の用を意識することが重要なのではないか。

かつて、王朝時代の中国や江戸期・高度発展期の日本の学問や社会のレベルはそういう無駄が支えていたのだ。