役に立つことは人によって違うんだよ

よく、高校などで学習する必要のないものとして三角関数を槍玉にあげる人たちがいる。

聞くと、たいていの場合、役に立たないことを学ばせるより、役に立つこと(だけ)を学ばせろ、という意見だったりする。

 

これは、専門学校や大学のように進路または専門分野が決まっている学校にたいしての意見なら分からなくもない。

 

しかし、中学や高校で、全員に役に立つかどうかなど何一つわからない。

たとえば、英語などまったく使わずに一生を終える人はまだまだたくさんいるだろう。

仮に商品名や店の名前で英語があっても、その意味を理解する必要はない。

では、英語教育をなくせというだろうか。

おなじく、江戸幕府の政治がどうだったかなど、歴史の研究者や教師、小説家など以外には一ミリも生活に影響がないだろう。だからといって、日本史の授業を廃止せよというのか? ただし、廃止すれば歴史の教師や小説家なども生徒・読者がいなくなるからいなくなる。

要は、進路や専門分野が決まった時に、スムーズに学べるように広く(浅くてもいい)学んでおくことが中学校や高校では必要なのだ。

 

また、学校で出会わなければ知らなかったであろう分野(クラシック音楽や少しマイナーなスポーツ、漢詩など)を学ばせることも必要だと思う。

むろん、それらが「役に立つ」人間など割合でいえばほぼいないだろう。

しかし、そういう人たちもいないと世の中はなりたたないのだ。

仮に野球をプレーしない人間に、野球は役に立たないからと接触させなければ、業界が衰退する(成りたたない)。

将棋を自分ではしない人間でも、将棋を見るのが好きというのはいる。それはどこかで将棋に触れ、その面白さを知ったからであろう。

役に立つたたないなどというのは、近視眼的な無思慮の意見なのである。

 

蛇足だが、この記事を書くきっかけとなった議員の発言で

三角関数のかわりに金融経済学を

についてだが、先に金融経済学を科目とするのか、それとも科目の中の単元にするのかと重複するが、

もし、科目として金融経済学を考えているのであれば、三角関数は数学の中の単元のひとつなので、大きさというか規模がつりあってないのだ。

みみっちい例をあげると、

お弁当の付け合わせにあった

たくわんを柴漬けにかえろ

というのはつりあっているが、

たくわんをのり弁当にかえろ

というのはつりあっていない。

三角関数を金融経済学に変えろというのは、そういうつりあいがとれていない言い分なのだ(そもそも暴論)。

発言した議員とその賛同者は、金融とか経済学とかでなく、ものごとのつり合いがわかるようになってから発言をしてほしい。

 

ほかにも、そもそもなぜ学校で役に立つことを教えろと言い出すのか、それは政府がお金をださない緊縮財政をとっているからだ、とか書きたいが、

久しぶりに記事を書いたのと、風邪のせいで疲れた。

ここで終える。