安倍元首相銃撃事件で思ったこと その5 仮定の話

ここまでダラダラと書いたが、実はいちばん書きたかったのはこれから書くことで、それは想像というか仮定の話である。

 

今回の銃撃事件は、発生直後に政治テロと思われ、与野党の議員たちが

民主主義に対する挑戦

卑劣な蛮行には屈しない

などとコメントをしていた。

しかし、参院選自民党の圧勝で終わったこと、さらに動機が政治テロではなく、政治家たちもズブズブな新興宗教団体に対する怨恨だったことが判明し、コメントする意味がないと判断したのか、それともコメントすると損をすると思ったのか特に新たなコメントはされていない。

 

が、ここで、あえて、もしも政治テロだったらどうだったのか、もっと言うと、言論で物事が動かせないとしたらどうするか、ということが気になるのだ。

しかし、大仰に書いたが、実は結論はない。

ただ、なぜそういう風に気になったかだけを羅列する。

実は事件前の7月3日、自民党の山際経済再生担当大臣が参院選の街頭演説で「野党の人から来る話は、政府は何一つ聞かない」と発言している。

これは事実そうであろう。

過去に厚生省の職員であった宮本政於の本(どの本か失念して、今手元にもないので書名は書けないが)にも

与党議員からの注文には徹夜をしてでも、部外秘の資料もつけて応えるが、野党議員、特に共産党議員からの要請には、一般に公表している資料を時間をかけて(わざと遅くして)コピーして渡しておけばよかった。

というようなことが書いてあった。

ただし、事実そうであることと、それを言っていいかは別の話だ。

また、いつごろからか明確にはできないものの、いわゆる無敵の人とよばれる、失うものがない人たちの犯罪も増えている。

たいていは無差別に不特定多数を襲うものだ。

犯行動機が死にたかった、捕まりたかった、などというのはまだマシで、そこらを幸せそうに歩いてる奴らが憎かったなどというのもある。

その他、バブル崩壊以後の経済悪化、労働環境の悪化、氷河期世代の切り捨て、自己責任論、社会保障の水際対策など挙げればきりがないが

要は、意見を言っても議論にならず(これはまだマシな書き方で実際は意見を言う場所もない)、幸運にも議論になるかと思えば、実は最初から結論が決まってた(野党の話は聞かないのように)という状況ばかりのときにどうするかだ。

今までは自己責任論にもとづき、自分自身に向かい自殺をしていたのだろうが、他者に向かえば無敵の人となる。

 

民主主義はたしかに多数決で決めるのだが、少数者の意見はまったく無視あるいは踏みにじっていいわけではない。

たしかに行き過ぎると、マイノリティーの意見を聞け、マジョリティーは我慢しろというおかしな構図になることもあるが、それはまた別の問題だ。

 

テロで歴史は動かないという意見はある。

たしかに歴史を動かそうとしてのテロは、無意味なように思える。

しかし、そうではなく、社会から棄てられ(というよりも無視され、の方が適切か)赤ん坊が泣くことでしか要求を伝えられないように、自殺か無敵の人しか選択肢がなかったとしたら。

仮にそうであったとしら、

暴力に屈しない

蛮行は許さない

というコメントも、

やぶれかぶれとはいえ命をかけた最後の手段までも無視されたと解釈できる。

悲しいなあ。

とりとめがなくなってきたので終わる。