そりゃあ例えれば、青森の図書館が陰徳太平記をずっと蔵するべきかというと難しいけどさ

市立図書館に行った。

ここはこの一年、精力的に蔵書の破棄をしており、頻繁に譲渡会をしている。

要は市民に、欲しい本があれば持って帰れ、とやって、最後まで引き取り手のない本は廃棄処分になるというわけだ。

 

もちろん、図書館の敷地は有限で、蔵書に利用できる空間も限られている。

だから、新たに仕入れ続ければ、どこかの段階で本の処分をしなければならない。

それは理解できる。

しかし、気になるのは破棄される本の中に岩波の古典文学大系や日本思想体系、郷土史の基本文献(例えれば鎌倉市にとって吾妻鑑や群馬県にとっての新田氏関連の文献)などが含まれていることだ。

もちろん、古い年鑑や辞書、小説でも廃棄しても惜しくないわけではないが、上記のような古典や基本文献は廃棄していいのだろうか?

 

実際には機械的に利用者(貸出数)が少ない本で、出版年が古いものを廃棄しているということだろう。もしもこれは重要な文献で云々と言われたら、そういう研究や調べものに使うような本は県立図書館や大学の図書館にもあるから、そちらを利用してくれというのだろう。

 

元々、公立図書館の役割について議論がされぬまま(されぬは言い過ぎか、議論が不充分でなあなあのまま)ここまで来た。単なる無料の貸本屋か、あるいは就業支援や進学支援に使えるような本を充実させたり、あるいはその土地のことを書いた本のコレクションに特化していたり、とよく言えば各図書館の自主性に任せられている状態である。

 

そろそろ図書館の在り方「も」きちんと考えた方がいいけどなあ。

というようなことを、廃棄されそうな日本思想体系の新井白石を見ながら漠然と思っていた。