日本はよく古文を蔵する国なり

伝統的に中国人のもつ日本のイメージは、日本刀と書物の国であった。

書物は日本で書かれたものという意味ではなく、中国で亡佚してしまった(なくなってしまった)書物が日本ではよく保存されているというのである。

 

まずは北宋の欧陽脩の作品「日本刀歌」から後半部分を抜粋しよう。

 前朝貢献屡往来 士人往々工詞藻

 徐福行時書未焚 逸書百篇今尚存

 令厳不許伝中国 拳世無人識古文

 先王大典蔵夷貊 蒼波浩蕩無通津

 令人感激坐流涕 錆渋短刀何足云

  (日本は)前朝(唐)に貢物を献じにしばしば往来してきた。その使節の責任者たちは往々にして詩文に巧みであった。

  徐福が(日本に)行ったときにはまだ(中国で始皇帝による)焚書が行われていなかったので、(徐福が日本に持って行った書物の中には、中国では焚書されて失われた)逸書百篇(正確に百篇ではなく、多くの意味)が(日本には)今なお存している。

  (それらの書物は日本の)法令が厳しくて中国に伝える事が許されていない。(そのため今の)世の(中国の)人達はみな古文(いくつかの解釈があるが、ここでは孔子など聖人の教えくらいの意味)を知る者がいない。

  先王たちの教え(先述の古文に書かれている内容のこと)は異民族(野蛮人くらいの意味、ここでは日本のこと)のところにある。海は広大で(中国から日本国内の)港には行けない。

  (個人の教えが中国から失われたとはいえ、それらが日本に保管されていることは)人を感激させて、座っていると涙がこぼれてくる。(中国で失われた、日本に残る古文に比べたら)錆びた短刀(今回は省略した詩の前半で触れられている日本から中国に輸入されている日本刀のこと)などなんでもないことだ。

 

少し長くなったが、このように日本には中国で失われた書物が残っているという認識は、ある程度共有されていたようだ。

 

なぜ、そのようなイメージがあるかというと、原因は2つあるだろう。

ひとつは、日本は中国から書物を多く輸入(購入も寄贈もあわせて)していた。

これは遣隋使、遣唐使のころから江戸末期まで一貫してそうだった。

江戸中期以降には、中国で出版されてから半年ほどで長崎に入り、日本で売られていたということもよくあったらしい。

 

 副次的に生まれたエピソードとして、『孟子』を積んだ船は沈むというものがある。

 『孟子』には革命容認論が説かれている。しかし、日本では、この革命容認論が受け入れられなかった。といっても反発するというよりも、全く無視したようだ。だから実際には日本では、平安時代には『孟子』はその革命容認論が書かれている部分を飛ばして講義されていたらしい。

 で、『孟子』を積んだ船についてのエピソードだが、

 日本には革命容認論が知られていない(存在しない)らしい。ということは日本には『孟子』が伝わっていないはず。

 でもあれだけ中国から書物を持っていくのに『孟子』だけ伝わってないというのはおかしくないか?

 それはどうやら『孟子』を積んだ船は日本に着く前に沈んでしまうかららしい。

 というものだ。

 

さて、中国では早くに亡びてしまったが、それらが日本に残っていた書物として有名なものを3つ例に挙げる。

 

ひとつは、皇侃(おうがん)の『論語義疏』である。

これは中国では北宋代には亡佚したようだが、日本にあることを知った清代の中国(日本では明治期)から日本に写本を貸してくれと依頼があった。

 

さらに、『水滸伝』には70回本、100回本、120回本の三種があるが、中国では120回本が早くに読まれなくなり、それに伴って出版されなくなっていた。

一般の読者は120回本の存在も知らず、研究者でもかつて存在していたらしいというくらいの認識であったらしい。

それに対して日本では100回本と120回本がよく読まれ、70回本もまたすたれることなく読まれていた。

清代末期の中国に日本の学者が招かれたりしたときに、水滸伝の話になり、日本の学者が中国の学者に、なぜ貴国では120回本の研究をしないのか?と尋ねたら、現存しないものを研究しようがない。もしかして、日本にはあるのか?と聞き返されお互いに驚き、日本にある写本や刊本を貸したという話もある。

 

3つめは、『群書治要』である。

これも同じく中国では失われ、清代に日本から逆輸入された。

また、90年代に習近平の父である習仲勲が、日本の皇室関係者から写本を手に入れて研究を命令している。のちに『群書治要考訳』として出版される。

そのことを下敷きとして、細川家の永青文庫に所蔵されていた写本を、細川護熙元首相が習近平に寄贈している。

 

ほかにも中国で散佚した書物が、日本から逆輸入された例はある。

その一つひとつの事例が、中国人の、かつて自分たちが失った書物は日本に保存されているはずだ、というイメージの根拠になっていることは間違いない。

 

もちろん、日本にも散佚した書物は多くあるし、そもそも中国の書物があってこその日本への輸入、保存、受容があるわけだから、大きな顔はできないが、日本における書物の受容および保存についてはもっと研究されてもいい。