儒教が生まれた(学問の一派としてまとめられた)のは中国の春秋時代のことであった。その後戦国時代、秦、そして前漢の中期までは、俗に百家争鳴といわれるほど多くある学問・思想の中のひとつにすぎなかった。
つまり、儒教を学ばない人も少なくなかった。いや、そちらの方が多かっただろう。
当時は、儒家の連中は、一般的には現代日本のマナー講師のように、ささいなことにうるさく実務にうとい。役に立たないことばかり知っている葬式屋のようなものだと思われていたようだ。
実際、孔子とその弟子たちは政治的な意味で本人の望むような出世はできなかった。孟子にしても、数名の王(魏の恵王など)に気に入られてはいたが、やはり政治的に出世して、大臣として経綸することはなかった。
潮目が変わるのは、劉邦が漢(前漢、西漢)を興したときである。
劉邦は儒家の叔孫通に命じて宮中礼法を定めさせたのである。なお、劉邦は儒家嫌いで、ある儒家の冠に放尿をしてののしったこともある。
その礼法により、秦末の乱世を生き残った荒くれものたちがおとなしく、宮中儀式がおごそかになった。劉邦は「我れ、すなわち今日、皇帝の貴っときを知るなり」と感心したという。
それから武帝のときに国教化された。
国教化という呼び方や、その定義には疑問がないでもないが、武帝のころに、それまでよりも儒家が重んじられるようにはなった。そのため、以下の文でも国教化という用語を使う。
実は劉邦のころから武帝のころまでは、確かに宮中儀礼の専門家ということで無下にはされていなかったが、基本的には以前と変わらず、あまり好かれていなかった。その頃は老荘思想の方が人気があったようだ。
ところが、国教化されて以降、特に儒教の教えのなかの、規律の重視と孝行の思想が統治に有益だということや、元帝のような儒教好きの皇帝がでたことなどもあいまって、儒教は徐々に他の学問・思想に比べて優位的になっていった。
決定打は、やはり隋代に官吏登用試験の科挙がはじまったことだろう。その後、唐で整備されていった科挙は、試験科目として儒教を採用した。
それによって、それまでは他の学問よりも優位的ではあっても、儒教を学ばないことを選択できた。さらに儒教として学ばずに、特定の書物を読んだり研究したりすることができた。たとえば王弼は易経と老子に注釈をつけていて、何晏は論語と老子に注釈をつけている。
なお、基本的に清末まで、中国の古典研究は注釈書を書くことであった。
それが、科挙の制定により、もう少しきちんと言えば孔穎達らの編纂した『五経正義』の登場により、儒教は(科挙を受けるような階層だけでなく、それ以外の人々も)一般的に知っていることが当然とされ、さらに儒教を勉強しないという選択肢はなくなった。
それと同時に自由に研究し、注釈をつけることはなくなっていった。もちろん研究する者はいるが、『五経正義』から離れたことを書いても、読まれることはないので、自然とそういう者はへっていったのだった。