少し思うところがあって、儒教についてまとめようと思った。
といっても、高校の社会科で学ぶくらいのレベルで、だ。
まず、儒教と儒学という呼び方があり、本当は思想的・学術的な側面と宗教的な側面のどちらのことを扱っているかで使い分けがあるのだが、一般的な用法に従い儒教で統一する。
また、宗教的な側面については、ほぼ触れない。
しかし、実際には儒教の教えを(多少)体系化し、教団としてまとめたのが孔子であって、孔子以前から儒教の教えはあった。
事実、孔子自身もそのように自認しており、論語の述而篇で「述べて作らず」と言っている。これは、わたし(孔子)は古人の教えや事績を述べるだけで、新しく自分の意見や制度を作ろうとは思っていないという意味である。
儒教の教えは、人間の徳育と各種儀式の制度(知識と実施)がある。
孔子の画期的なところは、特に徳育についてである。とらえどころのない徳育を、徳目または分野ごとに分けたことだ。
一般に儒教的な徳目で重要視しなければいけないものは、
仁 義 忠 孝 礼 智 信
とされる。さらに勇や悌などを加えたりもする。
そのなかで、孔子が最も重視したのは「仁」である。
どうも、孔子の中では仁義や仁愛のように並列ではなく、仁のある人間は当然ほかの徳目も兼ね備えている完璧な人間となっているようである。
ところが、問題がある。
どうも、孔子の中ではそれぞれの徳目がどういうものか、漠然としたイメージはあっても、きちんと定義されていなかったようなのだ。ささやかに孔子を弁護をしておけば、孔子自身のなかでは明確に定義されていても、(弟子のレベルが低く)弟子に伝えられなかったのかもしれないし、そもそも定義できるものではないのかもしれない。
とはいえ、そういうわけで、論語のなかでも明確に仁はこういうもの、義はこういうものとは書かれずに、こういう行動は義であるとか、このような事例は仁とはいえないなどとケーススタディだらけになっている。
少し儒教の経典について触れる。
これは四書と五経に分かれるが、明確に上下というか高弟がある。
五経の方が四書よりも高級であり、本来的には五経をさえきちんと読みこむなら、四書は読まなくてもよかった。
五経は
である。
四書は
である。
五経は孔子が書いたか、または編集した書物とされてきた。現在の歴史学的書誌学的にはほぼ否定されているが、しかし歴史的に孔子が関わった5種の書物とされてきた。
四書はそういう意味で、孔子が関わっていない書物である。注意するべきは『論語』は孔子(と弟子や面会相手)の言行録であって、孔子が書物にするために文章を書いたり、編集したものではない。
そのため、四書よりも五経の方が重要で高級なものとされている。
繰り返しになるが、五経にさえ習熟できるならば、四書も含めて他の書物を読む必要はなかった。
なお、五経に『論語』と『孝経』を加えて七経とすることがある。
さらに、『礼記』以外の礼に関する重要な書物として『儀礼』と『周礼』を加え、春秋を、注釈書として重要な3つ『左伝』、『公羊伝』、『穀梁伝』に分けて九経とすることがある。この場合は『論語』と『孝経』は含まれていない。
さらに九経に『論語』と『孝経』、そして『爾雅』を加えて十二経、そこに『孟子』を加えて十三経とすることも多い。
四書については、朱子の説明でふたたび触れたい。