映画祭り
スターリンの葬送狂騒曲、呪怨 終わりの始まり、呪怨 ザ・ファイナルをみた。
呪怨はビデオ版よろしく、この2作品は連続している。
また、終わりの始まりの弥生とザ・ファイナルの碧も姉妹だ。
また、不動産屋も登場する。
この袴田演じる不動産屋のシーンが本当にいい。
劇場でみたときのことも思い出す。
終わりの始まりでは劇場のときとおなじく、トリンドル玲奈が演じる女子高生になぜか腹が立ち、はやく伽耶子にやられてほしいと思ったり、
ザ・ファイナルはまず劇場に2度行った。一度目は雷雨で映画館が停電になっていた(2015年6月21日の記事。雷雨の劇場は20日の出来事)。
スターリンの葬送狂騒曲は、もったいない映画だった。
スターリン死後のドタバタを描いた作品だが、これはコメディではない、、と思う。
たくまずしてギャグになっていることはあるが、コメディにしてはシリアスで、どちらかといえば、歴史ドラマだろう。
パッケージでコメディなどとあおらず、悪ふざけもせずにいたらどうだっただろう。
アメリカン・レポーターと同じく、パッケージなどのジャンルで印象というか、評価が悪くなってしまった。
自分の身体が一番大事
職場の同僚が脳内出血で倒れた。
職場で倒れたので、すぐに救急車をよび、早く処置してもらえたことが、不幸中の幸いだった。
本人はもちろん入院。治療に専念だ。
さて、残った職場の連中は、彼の担当していた仕事を誰かが、或は誰かたちがもたなければならない。
仕事の投げ合い、押し付け合いがはじまった。
強肩ピッチャーだらけの仕事投げ大会。ドキっ!! キャッチャーがいないぞ!
てなものである。
今回のものではないが、私にも仕事をふられたが、体調がよくないので断った。
それを上の方々がよく思っていないらしい。
長くいるところではないな。
元号といい余計な事ばかり あるいは自信がないのかな
紙幣の柄を変更する案を政府がだした。
1万円札を渋沢栄一。5千円札を津田梅子。千円札を北里柴三郎。
本当に要らんことしかしない。
北里は、野口と違い、実績・人格ともにお札になるに足るとは思う。
しかし、残り2人が問題だ。
渋沢については、個人の好みの問題。
ただ経済人をお札というのは、そのものずばりという感じがして、何というか生臭いように思える。
その意味で、経済人そのものではないが、経済に関わりのあった福沢諭吉がよかったのに。
津田は論外だ。あの時代に女子高等教育を唱えたり、実際に津田塾を創設したという功績はあるだろう。
しかし、彼女は幼少期に渡米したために、通訳が必要なほどに日本語ができなくなっている。(夫の神田乃武との会話は英語を用いている)
これが、一応、国を代表する紙幣の顔として適当だろうか。
もしそうであるなら、この次は平塚らいてうにでもしたらよいだろう。
アメリカ大統領は世界の王様?
華氏119を観た。
タイトルで想像がつくが、マイケル・ムーアの映画。
今回はトランプ大統領批判、、、とミシガン州知事リック・スナイダー批判。
(ただしスナイダー知事は2019年の元日に交代している)
いつものムーア節で、ある意味何も変わっていない。
批判の内容には同意できるが、批判の方法には賛同しづらい。
批判される方もたいがいなので、まあ、そちらも大変ね、というのが率直な感想。
しかし、今回の作品でとても重要な視座があった。
それはトランプ(のような差別主義的、反民主主義的、富裕層と癒着している)大統領は突然登場したわけでも、民主主義的な手続きをとっていないわけでもないということだ。
突然登場したわけではないというのは、オバマ大統領の頃に国内外での軍事行動や移民弾圧、大企業からの政治献金などは当時のピークをむかえ、トランプの批判されている政策や行動は実はオバマの路線踏襲であるということ。
特に元来左派であったはずの民主党が支持基盤である労働者を見捨て、共和党的な政策をとるようになってから、トランプは(あざといほどに)労働者層の票を拾っていった。
民主的な手続きによる反民主的な指導者の誕生は、おなじみのヒトラーをひきあいに出していた。これはインドネシアやアフリカ諸国などでもよく起きている現象だ。
物語の最後の方で、トランプがむしろ気づかせてくれた。
この国(アメリカ)を変える最後のチャンスなんだと。