マトリックス・リロードできず
すずき孔の「マンガで読む 井伊直正とその一族」がようやく手にはいった。
本屋から届くのが遅かったことはさておき、相変わらず面白い。
同時に届いた、仲川遥香「ガパパ」はまだ読んでいない。
以前、映画のマトリックス祭りをしようと思ったら、2作目の「マトリックス・リローデッド」が途中で止まってしまい、最後までみることができなかった。
別の店で借り直し、さあ再チャレンジを決め込もうとした。
今度も見ることはできなかった。
全く再生されない。
なんだ、マトリックス・リローデッドは必ずキズをつけないといけないのか?
中公新書
今月の中公新書のうち、「沖縄問題ーリアリズムの視点からー」と「トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで」、超読みたい。
毎月、中公新書のラインアップをみて驚くのだが、本当にタイムリーに知りたいこと、読みたくなるものを出版している。
他社のものにも、時事的なものはある。特に帯に緊急出版なんてあるものがそうだ。
しかし、そういうものは確かに緊急だったのかボリュームや内容が物足りなかったり、或いは数年、場合によっては数か月後には読むに堪えないものになっていることが多い。
中公新書では、例外ももちろんあるが、そういうことがほとんどない。
沖縄問題の著者高良倉吉は沖縄の前知事(仲井真)のときの副知事。トルコについても2020年の五輪を東京と競合した国であり、最近でもテロやクーデターなどでニュースにもよくでてくる。
冷静に考えると、興味をもつきっかけなどは数年前にあり、ここらで読みたくなるものだ。著者に依頼したのがいつか分からないが、よほど中央公論社のマーケティングはしっかりしているのだろう。
吉川忠夫「侯景の乱始末記」を再刊してくれないかしらむ。
邦画の時代劇は史実に則るのをやめたらよい。
超高速参勤交代を観た。
面白かった。正直期待していなかったが、いやいやエンタテイメントとして非常に良かった。
殺陣あり、人情話あり、史実あり、判官びいきありと盛りだくさんだ。
ただし、少しだけ書いておくとエンタテイメントとしては素晴らしいが、史実を下敷きにした歴史ドラマとしてはどうかと思うことが多々あった。
飯盛女が老中や大名に直に口をきいたりなどとてもとても考えられない。
そして大名(陸奥湯長谷藩、内藤政醇)が思いっきり東北弁を話している。
調べたら彼は先代政貞の長男だ。つまり、大名世子であろう。それがお国訛りとは考えにくい(参勤交代以降、大名の正室と、正室の子は江戸に住まわされる)。
また、この映画に限らず最近の邦画時代劇の悪い癖で、現代的な民主主義万歳、人類皆平等思想を平気で登場人物に喋らせてくる。
この作品では
「殿さまも紀伊国屋文左衛門も同じ人間で、クソもすりゃ女も抱く」というセリフがある。
また、主人公である大名に、女(しかも飯盛女)をとるか国(藩)をとるか、と悪役(公儀隠密)が迫ったりしている。
ありえない。
どうも、邦画時代劇は考証というものを棄ててしまったのではないか。
だから日本史風味の異世界物語としてみれば面白いが、時代劇としては見るに堪えないものになってしまっているような気がする。
ライブマンを見はじめた。
まだ第4話までだが、よい感じ。
ジェットマン以前ではあるが、ストーリー性が素晴らしい。
虹の橋
借りてきたDVDをみないままに、ライブマン1~4を借りてきた。
友よ、どうしたライブマンもどうした?というだろう。
それなのに、観たのはセデック・バレ第二部 彩虹橋だ。
戦闘シーンが続くため、第一部よりも気楽にみれる。
この場合の気楽は、字幕を一生懸命追うような頭の使い方をしない、という意味だ。
集団自決シーンも3回ほどある。最初の集団自決シーンあたりからは、分かりやすく切なく哀しくなってくる。
最後の日本軍司令官の独白は、あざとい気がするとしても、日本人の視聴者の感情を揺さぶるだろう。
霧社事件および第二霧社事件について調べてみたい。
劇中で語られるセデック族の神話、
かつて白石山に、波索康夫尼(Pusu Qhuni)と呼ばれる大きな樹があった。その木の幹は、半分が木で半分が石であった。
ある日、この樹の幹から男の子と女の子が生まれた。
この二人はたくさんの子供を生んだ。
この子供たちこそが我々、セデック・バレである
というのにも強く魅かれる。