ファイナル・デッド シリーズとなっていたが、タイトルとシリーズ名があってないんじゃないかな

ファイナルデスティネーションの2と3を観た。

それぞれ名前は、2がデッドコースター、3がファイナル・デッドコースター

ホラー作品がシリーズ化すると不思議なことにコメディ化する。なぜだろう?

ストーリーはそれぞれほぼ無関係。一応2でも3でも1の180便爆発とそれを免れた7人の学生の連続死事件のことは触れる。というより、そこから自分たちの運命を変えようと、無駄な努力をすることになる。

2の方は良く練れている。きちんと事態に対応しようとする姿勢がみえたし、何よりも死に方も(映画として)上手だ。特にエアバッグが膨らんで、頭に丸太だったかパイプだったかが突き刺さる場面なんかは秀逸。また自分たちが殺される運命にあることを信じない人が信じるようになるところも、そしてそれが手遅れなところもよく描かれている。

3の話の前に、1で水が意志を持っているかのごとく、コンセントなどを狙いスパークをおこす場面があった。恐らくはそのせいであろうが、2でも3でも水が機械にかかる、スパークし発火する、機械が暴走するという黄金パターンが繰り返される。2ではまだ見てられたが、3では、、、ふう。

問題の3だ。いや、問題作というのも違う。映画としてはとても楽しめた。なんなら1~3の中で最も面白かったくらいだ。

では何が問題かというと、冒頭に書いたコメディ化だ。もう設定は1、2でわかっているから、以下にそこに味付けをしていくか、ということになる。しかも主人公たちは卒業する直前の高校生。冒頭は卒業記念に高校が貸し切った遊園地から始まる。町でも建市300年の祭りもあるという設定。嫌が応にも明るくなる。

スタッフも作り馴れてきたのか、どの人物の死もピタゴラスイッチ感がするのだ。2でもないわけではなかったが、2ではピタゴラ感を出したときは基本肩透かしをくらわせ、その直後にストレートに殺していた。いい例が歯医者での子どもの死だろう。

ところが3ではピタゴラ感をだして、そして本家ピタゴラスイッチだと旗が出るところで死ぬ。こればっかりなのだ。これはもう笑うしかない。

また、オーメンの1でも同じことが言えるのだが、主人公に感情移入してみていると、登場人物たちは死神に追われていて、そこから逃げようとしているという風に感じているはずだ。おそらく監督だって観客はそうみていると思っているのではないか。

ところが、感情移入をしなければ、主人公が尋ねた人物がすぐに死ぬというだけだ。もうこれは猛烈にとんでもなく運がわるい(死んでないから、むしろ運がいいのか?)主人公か、順当に考えれば主人公が殺してまわっているかだろう。事実、警察は疑い出してかつ死神の罠云々を語った主人公の頭を変だと釈放している。10時間拘留したみたいだが。

また、感情移入していなければ、特に3は、アメリカ人(とまとめるのは強引だが)のがさつさに驚いてしまう。前述の水から通電、発火の流れなどはそもそも水気のある所で機械を使うな、逆もまた然り、だし。アメフトの部室で死んだ奴なんか、半分くらい自殺であろう。しかもまたイイくらいの脳みそ筋肉くんでピタゴラ感もあいまって恐いというより笑顔になってしまう。またホームセンターではバイトの2人も主人公たちも耳が聞こえないか眼が見えていないか、頭が悪いのか、観ているこっちが混乱してしまう。あれならそもそも帰るまえに片付けなどしなくてもいいのではないか。いや、彼らが片づけない方が片付いているのではないか。

日焼けサロンのときも店員の仕事に対する態度や客の悪い意味で慣れきった感じなど、むしろ今まで事故が起きてないことの方が不思議なくらいだ。

しかし、まあ映画としては楽しめる。これは様式美というものであろう。

3でおっ、と思ったのは、日焼けサロンの温度表示が華氏温度で76Fなどになっていた。さすがアメリカ映画だ。

日焼けサロンの機械の中で焼け死ぬシーンは、ストーリー的にも、映像的にもホラーであったが、キックアス2で悪役の母親が日焼けサロンの機械で焼け死ぬシーンはむしろ笑えた。やはりストーリーや映像で、似たような状況でも笑えたりホラーになったりするのだなあ、と感じた。