レクター博士が殺人をする理由がわからないが、判明するのだろうか。
クトゥルフ神話超入門を読んでいる。
創世記に続き、出エジプト記を読んでいる。
神がモーセとファラオに不毛な漫才をさせているようにしか思えない。
モーセ「神に言われたから、ぼくたち(イスラエル人)をここ(エジプト)から引っ越しさせて」
ファラオ(神がそうしたから、自覚せず)頑迷に拒否する。
エジプトの民、神に信じられないような災いを与えられる。
モーセ、神に「ファラオから断られました。どうしましょう?」
神、「ああ、お前たちに冷たくあたるエジプト人には災いをあげるから。んでファラオにもう一回、引っ越しさせろって言ってこい。どうせファラオは拒否するけど、おれが頑迷にしてるし。あ、そうそう引っ越しさせろって言うとき、拒否すると主(神)から災いを与えられるとも言っとけよ。どうせ拒否するけど」
これを数セット繰り返し。
不毛だ
レッド・ドラゴン レクター博士の沈黙(刑事グレアム 凍りついた欲望が改題された)を観た。
再映画化されたレッドドラゴンとは味わいが違う。
こちらは86年の映画(再映画化されたレッドドラゴンは2002年)。
またレクター博士は本当に脇役であった。脇役といっても全く目立たないわけではない。ドラえもんのスネ夫やジャイアンクラスというか、スネ夫と出木杉の間というか、その位の脇役。
原作小説を読んでいないのでわからないが、そこではレクター博士はどんな扱いなのだろう。
ドラマ版のハンニバルも観はじめた。
ハンニバル役が若すぎるのと、顔のつくりがサイコパス的な感じより、冷酷冷血な感じをうける。まあ、印象と慣れの問題だろう。
ハンニバルといえばカルタゴから、ハンニバルといえばレクター博士にしてしまったキャラクターだ。
考えてみればスゴイものだ。
無類に面白かった。気になりながらもずっと読んだことがなかったが、もっと早く読めばよかった。
原題は「Sons of the Yellow Emperor」。このYellow Emperorを黄色の皇帝(黄色人種の皇帝)と誤解されることも多かったという。もちろん、黄帝のこと。
指摘されれば当然に思えるが、海外中国人をみて
中国人は商売の才能があるとか、金もうけにしか興味がない
というのは誤りだ。そもそも儒教的概念では商人の身分は下の下だ。そして、海外に出た中国人は商売をするなりして、金をもっておかねば人の土地で生きていけないであろう。
もちろん大陸に残っている中国人も現実に金を儲けることに血道をあげているのは間違いないが、海外中国人だけをみて、「中国人」を云々するのは危険であろう。
この手の本は、サンプルを丹念に集めて、列挙する方式になるのは仕方ない。
もっと扱ってほしい地域や人もいるが、それを求めるなら自分で書け、ということになるだろう。
華人ではなく、華裔という表現に少し興味を覚えた。
ハンニバル・ライジングを観た。
以前劇場でみた時ほどつまらなくはない。
しかしガッカリ感はやはり残った。
ハンニバル・レクターという人物がいかにして出来上がったかの答えとなる作品である。そここそが良くないのではないか。
羊たちの沈黙、ハンニバル、レッドドラゴンではハンニバルは猟奇的で異常に頭が良かったり食人嗜好があったりするが、一番の特徴は良心のなさ、少なくとも世間的な善悪と彼の善悪は折り合っていないところ、であろう。
しかるに、ライジングで妹を、文字通り食べられたことで彼の精神は死んでしまったということが判明する。
もちろんこれは納得できる。
しかし、ライジングでは妹を食べた連中に復讐する話だ。これはハンニバルの良心のなさ、サイコパスなところとは、ある意味で矛盾する。
そこに違和感を感じる。
そういう復讐譚の主人公、あえて言えば復讐により人格もゆがみ殺人自体に快楽をおぼえ、食人嗜癖も身につけていくダーク・ヒーローと、ハンニバル・レクターが合わないのだ。
だから上記のような復讐ヒーローの映画としては、面白かったともいえるが、ハンニバルシリーズとしてはつまらなかった、というかそぐわなかった。
日本人のムラサキ夫人の役をコン・リー(鞏俐)が演じているのも微妙に違和感がある。まあでもコン・リーの存在感はやはりすごかった。
創世記を読み終える。
年度がおわる。
やりたいことはあるが、暇がなかったり、あっても疲労や怠惰でできなかったり。
とはいえ、そう言ってばかりもいられない。
毎年思うが、なかなか進まない。