イタリア映画をみたら、マドリガレを歌いたくなってきた。
イタリア映画「いつだってやめられる」三部作をみた。
副題は、順に
7人の危ない教授たち
10人の怒れる教授たち
闘う名誉教授たち
パッケージに印刷されたあおり文句は、それぞれ
空転!急転!逆転!
愉快!爽快!痛快!
集結!団結!完結!
とても面白い。最初から三部作にするつもりで作られているので、非常に見やすかった。
ただし、どれもラストは微妙だった。とはいえ1と2のラストは次作への振りなので、微妙でも次作をみれば問題ないが、3のラストは、、、うーん。
ひとつ、問題なのは、DVDのレーベル面に1、2、3などとナンバリングがされていない。しかたないので、パッケージを写真にとっておいた。パッケージにはナンバリングされているのに、なぜDVDにはされてなかったんだろう。
小ネタも多く、気軽に気楽にみられる佳作だった。
アマゾンレビュー
永田カビの漫画のアマゾンレビューを読んだ。
両極端に賛否両論だった。
しかし、よく読んでみると、ほめるにせよけなすにせよ、あまり内容に即していないものが多い。
作者の言動というか、行動に対しての評価なのだ。
大雑把にまとめると、作者の永田カビは
いわゆるメンヘラで、つねに自分は不幸であると感じている。
(親族も含めて)両親、特に母親から認められたいと思いつつ、こんな連中はクソだと思っている。のみならず、本人たちに「親子でなければアンタみたいな人間なんかとはつきあわない」というような文句も言っている。しかし、入院時などには母親も父親もわりにかいがいしく世話をしてくれている描写もある。
自立(一人暮らしのこと)したいと思いつつ、自立できない(アパートを借りて一人暮らしはしているが、、、)。
何より、1年以上無職でも大丈夫なくらい親のスネは太い。
医者から酒を禁じられたその足で酒を買い、飲む。
などが作品から窺える。また、永田カビのツイッターによると、作品ではさらりと描かれていた母親の入院は、実は開頭手術を伴う重大事で、親戚の会社の役員をさせてもらっていた。つまり、親族一同裕福である。
などということもわかる。
これらの理由で、べた褒めしている人たちもいる。
同じ理由で、けちょんけちょんにけなしている人たちもいる。
重要なことは、どちらの方も作品そのものの批判ではない。
しかし、これは自分にとってなじんだ評価方法だ。いや、自分自身はあまり好きな方法ではないが。
それは、つまり、王朝時代の中国(や朝鮮)の文人にたいする評価方法なのだ。
李白は作品は素晴らしいが奔放な人間性がよろしくないから、杜甫に劣る。だいたい偽の官軍に参加するような謀叛者だし。むしろ、忠孝が薄く、五倫を平気でこえるような精神だから、あんな神秘的な詩になるんだ、なんてほめてるのかなんだかわからない評価がされている。
杜甫も、李白をおさえて堂々の漢詩人の最も優れた者だ。なぜかというと、官を辞しても常に唐朝に忠誠をつくした実直居士だから。なんて、作品の内容がない賛辞は晩唐から清代まで山ほどある。
つまり、作者の思想・行動などの評価であり、作品の内容は実は評価していない。
まさか、それを令和の日本で、しかも漫画作品の評価で目にするとは思わなんだ。
突然の出会い
大学のときの指導教官だった先生に偶然会った。
読書記
部屋の本を片付けなければいけないのに、増える一方だ。
篠原千絵の「夢の雫、黄金の鳥籠」
オスマン帝国、スレイマン1世の愛妃、ヒュッレム(ロクセラーナ)が主人公。
とても面白い。13巻が新刊としてでていた。
一気に買い揃えてしまった。
永田カビ、4冊
さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ
一人交換日記 1、2巻
現実逃避してたらボロボロになった話
また、天子蒙塵を図書館で借りて読んだ。
なかなか文庫化しないので、ハードカバーを買うわけにもいかず、借りた。
面白いのだが、群像劇というか、主人公が多いため、1巻以外はこまぎれで話がすすんでいくスタイル。
つまり、ある時期の張学良の話のパート、そのころの溥儀たちの話のパート、そのころの日本の軍部の話のパート、そのころの満洲の話のパート、そのころの雷哥たちの話のパート。
そしてまた、張学良の話のパート、そのころの溥儀たちの、、、
というようにすすむ(アルスラーン戦記とおなじスタイル)。
最後の天壇の告天礼の儀式に梁文秀と李春雲が介添えとなる場面は、涙がでた。
しかし、とても話が中途半端なところで終わっており、なんというか、読んだ!と区切りがついた感じはしない。
面白いのだが、必ず次がないと納得できない。
で、蒼穹の昴を読み直している。
茫然
首里城が燃えた。
正殿や北殿、南殿など7棟が全焼した。
燃えている写真などのインパクトもあるが、事実そのものにショックを受けている。
自分に直接関係ないと言えば、その通りだ。
しかし、ニュースを知った朝から何となく力が入らない。
スマホの待ち受けも正殿にしているくらい好きだ。
そして、たぶん無意識に沖縄と言えば、首里城だったのだろう。
悲しいというのを通り越して、茫然としている。
象徴を失うというのはこういうことか。
ニュースで燃えている映像が映っている。
全焼だったからか、キレイに燃えていた。
燃えっぷりがいい、というのも変だし不謹慎だが
紅蓮の炎が建物の形をくっきりと浮かび上がらせていた。
聖徳太子没後、法隆寺の全焼(予言の映像)が見える人がいたという。
それはもちろん、聖徳太子の子孫の絶滅を意味するのだが、その全焼するときの炎の様子は、禍々しさをこえて、鮮やかな色で見栄えもよかったという。
そんな伝説を思い出した。
首里城自体は過去4回焼失しており(今回で5回目)、そのたびに再建されてきた。
焼失は1453年、1660年、1709年、1945年、そして今回2019年だ。
今回焼失した7棟は、
正殿、北殿、南殿、書院・鎖之間(さすのま)、黄金御殿(くがにうどうん)、二階御殿(にけーうどうん)、奧書院。
ここまで復元するのに30年かかった。
しかし、これは戦前の完全な復元ではない。まだまだ道半ばだ。
これから何年かけて復元できるのか。
せめて正殿だけでも、また見たい。
淳二ウィック
ジョン・ウィック3を観た。
面白いことは面白いが、1、2、3とどんどん漫画チックになってる。
主席連合やらいう存在や、そのトップ(あるいはトップの一人)がモロッコの沙漠にいるとか、正直1の(設定において)リアル路線からはずれすぎてついていけない。
マッドマックスシリーズと同じだ。
原作があるなら、どうなのか読んでみたい。
稲川淳二の怪談ナイトに参加してきた。
2時間。前半が怪談、後半が心霊写真だった。
17時半にはじまった。
この2週間風邪をひきながら予定が立て込んでいて疲労がたまっていたことと、薄暗く低調でとつとつとした話しぶりが相まって、怪談中に寝た。
どの話も始まりと落ちは聞いていたが、途中は寝ていた。
最後の怪談を話し終わり、感想というかツナギというかで、
「大きな歴史の中の小さな歴史、当事者たちが亡くなってしまえば消えてしまうような歴史をこれからも語っていきたい」
ということを言っていた。
これが胸をうった。
ありきたりではある。しかし、胸をうった。
日常の記録の重要性と志怪もののことが頭に浮かんだ。
これについては、いつかまとめたい。
さて、心霊写真の方は捧腹絶倒だった。
怪談のときもそうだが、話し方の勉強になった。
完全に練り込まれた話芸は聞いていて、本当に心地よい。
終了して物販に並んだ。
おそらく30分もなかったが、会場が閉まるということでとても短い時間だった。
おつりで1000円少なく渡され、幽霊のでない恐い思いをした。
もちろんスタッフに言って、きちんとした額のおつりをもらった。