今週で整理は終わるのか
ようやくマンガ整理の終わりがみえてきた。
見えてきただけで、まだ終わってはいない。
惣領冬実の「チェーザレ」もかなりもったいないが、11巻以降出ないのでは仕方ないと処分することにした。
処分前に読み直した。
読みながらまたアイデンティティの問題に突き当たる。
チェーザレ自身はローマ生れローマ育ちなのだが、周囲からはスペイン人とよばれる。
ボルジア家の基盤がスペインにあり、チェーザレもスペインのパンプローナ司教だからだ。
さて、自分がなに人なのかということの問題がここにあろう。
法的なもの(書類上)、実感として、あるいは相手に合わせてなどで自分がなに人か変わるものもいるだろう。
答えもでないが、チェーザレ・ボルジアや中世イタリアについては日本でももっと取り上げてもよいように思う。
整理も終わらぬのに、本屋にいったら、
絢爛たるグランドセーヌの10巻が出ていた♬
また、インドネシア語辞典が2種類出版されていた。
1つは三修社から「ポータブル日インドネシア英・インドネシア日英辞典」。
三修社の方は、どちらかというと単語帳のすごいやつ、という印象がした。そのため、食指が動きはしたが見送った。
小学館の方を即買いした。
ネタはいらない、幸せがほしい
近所の弁当屋に行ったら、弁当屋の隣の店が変わっていた。
以前は和風の割烹だったのが、中華居酒屋になっていた。
餃子の持ち帰りができるみたいで、ほかの中華料理の持ち帰りもできるか聞いてみた。
ラーメンみたいに汁があるもの以外は全部持ち帰りができるようだ。
ということで、焼き餃子と四川青椒肉絲を頼んだ。
そのとき、青椒肉絲の四川をとれないか、つまり辛味をなくせないか聞いたら、
できるけど、少しは辛味があった方がおいしいよ、というので、腹具合がよくないと断った。
これで終われば、いいのだが、神さまはネタをくれた。
なんと焼き餃子が水餃子になっていたので、
どうしますか(水餃子に変更するか焼き餃子を作り直させるか)?
と聞かれたので(そもそも何故そんな間違いが??)調子にのって
スイチャオ(水餃子)じゃなくてグォテ(焼き餃子)が食べたい、と中国語を混ぜたら
你是中国人?
と中国語で聞かれた。彼らはなぜ日本語で質問しないのかはさておき
親戚の話をして中国語は単語ぐらいしか使えないと伝えたのだが、、、
以下の会話はすべて中国語で話されて、私が分からないと日本語でいうという、非常にアグッレシブなものに変更された。
中国人と認めてもらったからか(私は中国人ではないけれど)間違えてつくった水餃子もサービスされ、非常にフレンドリーに。
不思議なことだが、私の中国語はあちらさんには通じるのだが、あちらさんのは聞きづらかった。
まあ、めでたしめでたし、、、
水餃子食べたから、おなかいっぱいで持ち帰りで買った料理が入らない(泣)
診断書
通院した。
他の患者さんで、診断書について
なるべく強調して症状や安静の必要性を書いてくれ
と、ナースと相談している(というかゴネている)人がいた。
聞くともなしに聞いているとどうやら同業他社にお勤めの方のようだ。
どこも大変だな、と思った。
中国古典の文庫が読みたい気持ちがまとまりもなく
といっても日本語訳を読んだので、書序は読んでいない。
面白いことは面白いが、誰かが誰かを諭している、或いは誰かに宛てた命令書の体をとっているので、疎外感を多少感じた。
いわゆる歴史書ではないので仕方ない。
今度は(中国古典の)国語を読もうと思う。
日本の出版文化は世界に誇れる。特に諸外国の作品の翻訳、また諸外国のことを書いた本などがこんなに出版されている国はないだろう。
しかし一面、出版はやはり流行を反映している。
つまり明治以降、特に戦後の漢籍離れを痛感している。
論語や孟子、易経などごくごく一部のもの以外は、漢詩の選集くらいだ。
1つでも日本語訳が出ていればまだいいほうだ。たとえ抄訳でも。
ハードカバーや漢文大系などの叢書を含めればまあそれなりに出版されているが。それらも平成になってからはほとんどでていない(一部例外あり)。
何が言いたいかというと、四書五経ですら全訳の文庫がでていないものも少なくない。
五経だけでも
書経(全訳註はでている)、左伝以外の春秋(穀梁伝の全訳はでているが入手はほぼ無理、公羊伝は抄訳がある)、礼記(全訳註も抄訳註もあるが、文庫化はされていない)、詩経(抜粋訳は多く出ている)
結局文庫で全訳が読めるのは、易経と春秋左伝のみだ。
四書は岩波文庫と講談社学術文庫が頑張っていて全て全訳が読める。
その他は、荀子、荘子、列子、孫子、戦国策、呂氏春秋くらいが文庫で読めるか。
仏教書は除くが、しかし、中国古典の文庫化がすすめばいいな。
いや、まずは日本の古典からかな。
定型詩の呼び方
さて、入院中に韓国の平昌で冬季オリンピックがあった。
フィギュアスケートで羽生選手がすごかったらしい。
中国の解説者、陳瀅さんが羽生選手のことを
站如松 坐如鐘 行如風 臥如弓
と称えたらしい。
これは、中国の解説者即興の漢詩で日本の選手を称讃とニュースで流れた。
もちろん美談としてだ。
この報道が実は微妙にひっかかっている。
美談だとか、選手の業績とかにではない。
「漢詩」という表現についてだ。
漢詩とはなんなのだろうか。
漢字で書いてある詩はすべて漢詩という風にもとれるが、
それでは、食柿鐘鳴于法隆寺(柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺)も漢詩になってしまう。
一般的には漢詩というのは定型詩(絶句と律詩)のことであろう。古体詩や自由律はここでは措く。
では解説員の作品は何と呼べばいいのか、ポエムではあるし、、、