映画版はすべて観おわりました。
レッド・ドラゴン レクター博士の沈黙(刑事グレアム 凍りついた欲望が改題された)を観た。
再映画化されたレッドドラゴンとは味わいが違う。
こちらは86年の映画(再映画化されたレッドドラゴンは2002年)。
またレクター博士は本当に脇役であった。脇役といっても全く目立たないわけではない。ドラえもんのスネ夫やジャイアンクラスというか、スネ夫と出木杉の間というか、その位の脇役。
原作小説を読んでいないのでわからないが、そこではレクター博士はどんな扱いなのだろう。
ドラマ版のハンニバルも観はじめた。
ハンニバル役が若すぎるのと、顔のつくりがサイコパス的な感じより、冷酷冷血な感じをうける。まあ、印象と慣れの問題だろう。
ハンニバルといえばカルタゴから、ハンニバルといえばレクター博士にしてしまったキャラクターだ。
考えてみればスゴイものだ。
華人の歴史
無類に面白かった。気になりながらもずっと読んだことがなかったが、もっと早く読めばよかった。
原題は「Sons of the Yellow Emperor」。このYellow Emperorを黄色の皇帝(黄色人種の皇帝)と誤解されることも多かったという。もちろん、黄帝のこと。
指摘されれば当然に思えるが、海外中国人をみて
中国人は商売の才能があるとか、金もうけにしか興味がない
というのは誤りだ。そもそも儒教的概念では商人の身分は下の下だ。そして、海外に出た中国人は商売をするなりして、金をもっておかねば人の土地で生きていけないであろう。
もちろん大陸に残っている中国人も現実に金を儲けることに血道をあげているのは間違いないが、海外中国人だけをみて、「中国人」を云々するのは危険であろう。
この手の本は、サンプルを丹念に集めて、列挙する方式になるのは仕方ない。
もっと扱ってほしい地域や人もいるが、それを求めるなら自分で書け、ということになるだろう。
華人ではなく、華裔という表現に少し興味を覚えた。
欧米人はどうして安易に戦争でゆがんだ設定にするのだろう
ハンニバル・ライジングを観た。
以前劇場でみた時ほどつまらなくはない。
しかしガッカリ感はやはり残った。
ハンニバル・レクターという人物がいかにして出来上がったかの答えとなる作品である。そここそが良くないのではないか。
羊たちの沈黙、ハンニバル、レッドドラゴンではハンニバルは猟奇的で異常に頭が良かったり食人嗜好があったりするが、一番の特徴は良心のなさ、少なくとも世間的な善悪と彼の善悪は折り合っていないところ、であろう。
しかるに、ライジングで妹を、文字通り食べられたことで彼の精神は死んでしまったということが判明する。
もちろんこれは納得できる。
しかし、ライジングでは妹を食べた連中に復讐する話だ。これはハンニバルの良心のなさ、サイコパスなところとは、ある意味で矛盾する。
そこに違和感を感じる。
そういう復讐譚の主人公、あえて言えば復讐により人格もゆがみ殺人自体に快楽をおぼえ、食人嗜癖も身につけていくダーク・ヒーローと、ハンニバル・レクターが合わないのだ。
だから上記のような復讐ヒーローの映画としては、面白かったともいえるが、ハンニバルシリーズとしてはつまらなかった、というかそぐわなかった。
日本人のムラサキ夫人の役をコン・リー(鞏俐)が演じているのも微妙に違和感がある。まあでもコン・リーの存在感はやはりすごかった。
聖書
創世記を読み終える。
逡巡
年度がおわる。
やりたいことはあるが、暇がなかったり、あっても疲労や怠惰でできなかったり。
とはいえ、そう言ってばかりもいられない。
毎年思うが、なかなか進まない。
詩仙は赤龍の詩をうたうか。 レッドドラゴンは赤龍にはあらず。
レッドドラゴン(再映画化版)をみた。
ストーリーは良くできているし、客がすでに羊たちの沈黙、ハンニバルを観ているという前提なのだから世界観にもすんなりと入り込める。
しかしシリアスな世界観だからこそ、ふと緊張が抜ける時があった。
これは観ている自分の責任だ。
結局シリーズを通して、謎解きのヒントを与え続けるレクター博士は、詰まるところ犯罪者刑事(デカ) 博士は謎解き収監中、ということだろう。
また、リーバ・マクレーン(盲目の女)を演じたエミリー・ワトソンが知人の女性に似ていて何かげんなりしたり。
さて、順当に行けば明日は、ハンニバル・ライジングなのだが、これは以前観てガッカリした記憶がある。しかし、まあ、ハンニバル祭りだから避けても通れない。
陳舜臣の絶筆(というか未完)の「天空の詩人 李白」を読んだ。
帯に、加藤徹の解説から
かつて、これほど李白の
心の内面に踏み込んだ李白論が、
あったろうか。
とある。 陳舜臣のせいではなく、加藤徹の解説はどれも気持ちが悪い。
解説というよりもおべんちゃらだ。
肝心の内容は、李白の詩を1つないし2つ解説し、少し説明があり、また李白の詩を解説し、というスタイルで進む。
正直、読みづらい。
読みづらい理由は、本文が随筆形式なのだが、1篇ごとに区切られていない。
そこへもって、語る内容も解説する詩の順番も、何かこう基準がわからない。
しいて言えば思い付いた順か。
まるで茶飲み話でもしているような感じだ。もちろんその雰囲気は嫌いではない。しかしこれでは目次もきれないし(事実、目次には 天空の詩人 李白とあるだけ)。
時折入る、詩人の感性で云々みたいな文章は、まあ陳舜臣に限らず伝統といえば伝統だが、そういう先入観はあまり良くない気がする。
後半は、陳舜臣の漢詩集、澄懐集の甲子篇と乙丑篇の二篇。こちらは各詩毎に目次がきってある。
詩の出来はわからない。私自身、詩がわからないから。
とはいえ絶筆という意味でも、また自家版として出版されていた澄懐集(存在は知っていた)を読むことができてよかった。
少し頑張って漢詩を読んでみようかな。
アンソニー・ホプキンズは本当に名演。小遊三に似てるけど
ハンニバルを観た。
名作の評価に恥じない。映画として、羊たちの沈黙よりも良い。
映画(に限りはしないが、とにかく映画)は見る時の状況によって感想が変わることも多い。
今回、クラリス・スターリングを通して、なぜ私はこういう女性が仕事で頑張る映画が好きなんだろうか、と考えていた。
サンドラ・ブロック主演の映画も然り、プラダを着た悪魔やマイ・インターンも然りだ。
別に女性に限定している気はないが。
それは結局、個人が仕事に忠実に励んでいるのを、周囲に理解してもらえず、結果として組織から浮いたり疎まれたりしている作品になっているようだ。
これは男性でももちろんあるが、というか身につまされるが、女性の場合はいわゆるガラスの天井があり、よりビビットに描きやすいということであろう。まあ、集客の問題もあるだろうし。
大抵の映画では最後は、周囲も主人公を認め(協調性がないのはそのままで)ハッピーで終わる。恐らく主人公も、私はこのままでいいんだ、と自己肯定をしている。
デンジャラス・ビューティーなどはもろにこれ。
或いは働き方を変えていくこともある。その場合、周囲というのが職場とプライベートの二本立てで語られ、仕事にのめり込むも、職場でも良い顔をされず、プライベートでもしくじっていく。プラダを着た悪魔はこれだ。
さて、羊たちの沈黙やハンニバルは、というと珍しくバッドエンドだ。結局クラリスは自己肯定もできず、キャリアを(全てが彼女のせいではないにしろ)棒に振り、といって別の道をさがすこともできていない。
猟奇やプロファイル、カニバリズムなどに目が行きがちだが、そういう目でクラリスを追うと悲しくなってくる。
そこにもってきてセクハラなどを受けているし。
バカな味方よりも敵であるレクター博士の方と理解し通じ合えている。
これは洋の東西古今を問わずよくあることだが。
今日はハンニバル祭りといこうかと思っていたが、やめておこう。
他に借りたのは、レッドドラゴン2種(1つは刑事グラハムー凍りついた欲望ーのリ・ネームで、レッドドラゴンーレクター博士の沈黙ー、もう1つはその再映画化)、ハンニバル・ライジング、ドラマ版ハンニバルのシーズン1の1。
再映画化や再販売はともかく同名をつけるのはわかりにくいのでやめてほしい。