ドラえもんではない

映画「スタンド・バイ・ミー」を観た。

今までも何回か観ているが、観る度に発見がある。

発見というよりも、みる時の状況(年齢的な変化も含め)に応じて気になる部分が変わったのかも知れない。

先に書いておくが、この映画は名作である。名作の定義がなんであれ、この映画を駄作とするのはおかしい、と言い切れる。

今回、観なおして感じたことや気になる部分を列挙する。ストーリーの順番にはとらわれず思い付いた順に書く。もちろん重要な順というものでもない。

・主人公たちは4人組には違いないが、仲良しというよりも恐らく他のグループに入っていない者同士の集まりという印象を受けた。特に旅の最中も4人というよりも2人組が2つある感じだった。

・時代のせいもあるかもしれないが、アメリカの田舎のいじめや、グレ方のタチの悪さにヒイた。

・この映画の「友情」の描かれ方は、友情に関わらないことはほぼ描写しないことが特徴だ。少年たちの友情を強くするもの、ということでエース率いる不良グループは描かれている。また同様に、ゴーディの両親も出ている。4人組とゴーディの両親以外にはスクラップ場の親父と雑貨屋の親父以外にはほとんど大人が登場しない。スクラップ場の親父はテディの父親に関する複雑な感情を刺激する悪者、雑貨屋の親父は、悪気無くゴーディの気持ちを沈める(静めるではない)役割である。他の大人たちはゴーディの作り話以外では映像に出てこない。

・特に4人組以外の大人は、基本的に悪者である。映像では出てこないが、教師に至っては、クリスが返した給食費の流用をする泥棒である。バーン以外の家庭環境は劣悪である。クリスの父親はいわゆるDQNであり、兄は不良のアイボールである。ゴーディの親はゴーディに関心も示さず亡くなった長男にしか関心がない。テディの父親はノルマンディーの英雄であり、精神病患者。テディの耳をストーブで焼こうとする虐待親でもある。

・ゴーディの自己評価はとてつもなく低い。亡くなった兄と比較され続けているためである。しかも恐らく彼自身も兄デニーと自身を比べている。夢で父親が「おまえ(ゴーディ)の方が死ねばよかったのに」と言われている。

・ゴーディは兄の事をどう思っていたのだろう。そしてゲロの衝撃が大きすぎて楽しい話だと思っていたが、ゴーディの作り話「パイの大食い大会」はよくよくみれば復讐譚だ。主人公のデブをバカにし続けた町の連中をゲロまみれにして悦にひたるというものだ。これはゴーディの心が何かに復讐したかったのではないか。しかしアメリカのバカにする感じは恐い。よもや市長がみんなと一緒になって一市民をバカにするとは、いやはやなるほど法律が必要なわけだ。

・彼らの12歳という年齢に驚く。戦争や貧困による孤児などは成長が早い。もちろん身体の成長ではない。精神的な成長だ。ただしこれは決して良いことではない。程度問題であまり遅いのも良くないが。登場人物たちは時代のせいもあろうが、とても12歳とは思えない。それは上述のような事々も関係しているのだろうか。

・ゴーディにおいて顕著だが、存在を大人から否定されるのはつらいことだろう作中に「千数百人しかいない田舎だが、これが僕らにとって全世界だった」というようなセリフがある。その意味で4人組は、彼ら以外の全世界から存在を否定されている。いや、ゴーディは自身ですら自身を否定している。肯定しているのはクリスだけだ。ふと思ったが、映画の舞台は50年代だ。その後女性の社会進出、ジェンダー論が盛んになる。で、女性というだけで否定されることのつらさが問題となる。たまたま女性と書いたが、何かのレッテルやグループを充ててもよい。それももちろんつらいことだろう。しかし、このゴーディの場合、○○のゴーディのようなレッテルがない。むきだしの個人としてゴーディは存在を否定されている。ある意味逃げ場がない。グループとして例えば○○人だから否定されているなら、或いは○○人の中なら存在できるであろう。しかし”おまえ”はダメだとされたらどうしようもない。その点でだけ、家庭環境が悪いから否定されているクリスはゴーディよりもマシだろう。

ワープロの緑の文字に時代を感じ、かつときめいた。