焚書雑感

あるニュースを読んで、焚書について少し考えた。

日本人は焚書というと、即悪、と思う人がほとんどであろう。

欧州人にも焚書は非常に印象が悪い。やはり焚書、即悪、であろう。

日本人は焚書というと秦の始皇帝焚書坑儒を連想する。対して、欧州人は焚書というとナチスの焚書からホロコーストを連想する。

連想するもの、つまり焚書という行為が、悪であると判断する根拠は違うようにみえる。しかし、始皇帝ナチスも自分の思想に合わないものを排除する手段として焚書をする、という意味では同じである。もっともナチスも欧州人であるのだが。

 

日本人が焚書というと秦の始皇帝を連想し、書物を焼くとは許しがたい行為だ!!と思う人が多いと書いた。中国の読書人(以下中国人)はどうか。当然、日本人と同じかと思いきや、意外に焚書はした方がいいと考えている人が多い。特に明清の文人の筆記(エッセイ)には焚書はした方がいいとか、もっと大胆に焚書はしなければならない、とか書いてあるものも割とある。

実は日本人も中国人も秦の始皇帝の焚書を連想するとき、実際には焚書坑儒という熟語で連想している。

焚書は書物を焼くこと。坑儒は儒者を生き埋めにすること。

非常に単純な意味では日本人も中国人も始皇帝焚書坑儒は悪いこと、と思っている。しかし細かくいうと日本人は焚書のほうに怒りを覚え、中国人は坑儒のほうに怒りを覚えている。

そして、中国人の中の焚書賛成派の多くは、思想の排除が目的ではなく、似たような内容の書物を焚かないと書物の種類が多くなりすぎて、良書がまぎれてしまう。程度の低い書物を読んでしまい時間的に或いは機会の問題として良書を読むことができなくなる恐れがあるので、程度の低い書物は焚いてなくしておかないといけない、という意見である。

現代的には、上の考え方に対して、程度の高低を誰が判断するのか、そしてそれも含めて思想の排除であることは明白である。書物の活版印刷が普通になり、それ以前とは出版点数が飛躍的に増えた明清のころの文人たちはそうは思わず、単純に良書だけを残すために焚書が必要だと考えたのであろう。

もちろん中には始皇帝の逆に、儒学のためにならない(儒学を譏るような)書物を焚け、という思想排除をしたがる文人もいるが。

 

日本人が坑儒よりも焚書のほうに怒り(嫌悪感)を覚えるということは、日本が儒学を書物からの知識として取り入れただけで、日常の習慣や政治の作法としては取り入れてこなかったことの傍証のひとつになるであろう。