アイデンティティをいくつかの辞書で引くと、
自身がなにものであるかという認識。自我同一性。
などとある。
自分自身はなにものか、などというと様々な要素があり、とりとめもない。
たとえば性別・年齢・血液型・職業・性格・病歴・利き腕・指紋の形・サイン・髪が直毛か縮れているか、耳垢が粘性を帯びているかなどなど、個人を特定する情報は多く、その中で自分自身を規定すると意識されているものは更に多いだろう。
場合によっては食の好みなどで自慢気に話し、アイデンティティとしている人もいる。
日本人なら納豆は食べられるに決まっているだろ♬など。
その中でどの地域に属するかというアイデンティティについて述べたい。
いわゆる、どこの人、というやつだ。
実はこれは(これも?)簡単ではない。
どこの人ですか?この質問には複数の意味がある。
1.出生地を尋ねている
2.育った場所を尋ねている
3.住所を尋ねている
4.本貫(国籍や本籍、場合によっては一族の始まった場所)を尋ねている
5.アイデンティティとしての所属する地域を尋ねている
という風にいくつかの場合がある。しかも今回は何番の意味というようにキレイに分けられないときもある。
また、1~4の意味では5の意味を含むこともそうでないこともある。
寄り道に寄り道を重ねてもいけないので、性急に結論を書くと、
国籍とアイデンティティは関係が深いものであるが、必ずしも一致しないこともあるということが書きたかったのだ。
つまり、日本国籍をもっていて確かに自分は日本人である、という人もいれば(恐らくこれが一番多いだろう)日本国籍をもっていても(「無国籍」の著者のように)自身は中国人である、という人もいる。
また、場合によっては国籍というよりも、その国の中の地域に属しているということがアイデンティティとなっている場合もある。手元に資料がないので、不正確な引用になるが、小林よしのりのゴーマニズム宣言で、沖縄の大学生にアンケートをとったら、自分はなに人か?という質問に対して最も多かった答えは
自分は沖縄人である
次いで、自分は日本人である。
さらに沖縄(県)よりも小さな市町村や字などを答えた学生が多かったというのがあった。
なので、国籍の問題はつまるところアイデンティティの問題ではあるのだが、国籍=アイデンティティではないということに気をつけて考えていかなければならない。