そういえば、昨日みた「バーニング劇場版」は、
話のつくりというか、観た感じが、台湾映画の「牯嶺街少年殺人事件」に似ていた。
最後の場面まで、主人公たちの日常が丁寧に、ゆっくりと描かれる。
牯嶺街の方は、カタストロフまで、閉塞感はありつつも坦々とした日常で、
バーニングは上映時間の半分ほどで、カタストロフの原因が、はっきりと描かれるという違いはある。
また、牯嶺街はカタストロフ後のエピローグが描かれ、字幕でもフォローされる(この殺人事件は実際に起きた事件)のに対し、バーニングは、カタストロフ後も描かれず、そもそもその原因となる出来事についても、何も説明はされない。
想像力を刺激されつつも、何も説明されないまま(映画に)おきざりにされた感覚を楽しめる。
今日は、邦画「人魚の眠る家」を観た。
人の死というのは何か、ひいては延命治療の是非、在宅介護の負担、家族たちの温度差、ワークライフバランスなどの問題も描かれる。
分かりやすく泣ける。あざといくらいに泣けた。
小難しいことを考えなくても、俳優たちの演技に圧倒される。
人の死の定義に対する(製作者の)考えは、西島演じる主人公の父親のセリフで
(脳死よりも)心臓が止まった時
に娘が亡くなったことを実感したという。
ここでいう製作者は、監督なのか、それとも原作の作者なのかわからない。
原作小説があるようだ。
また、ラストシーンで、移植された臓器の記憶も描かれる。
自宅で介護したり、医療工学(の人体実験的な療養)を享受できる設定上、仕方ないことだが、主人公一家は大企業の社長の家族である。また、臓器移植された患者は主人公たちの近所(恐らく歩いていける距離)に住んでいる。
というのが気にはなった。
小川洋子のエッセイについても感想を書きたいが、明日にしよう。