平成が今年4月いっぱいで終わり、5月に改元が行われる。
新元号の案も20ほどに絞られ、選考過程も最終段階に入ったと報道された。
で、その報道内容に驚いた。
元号の出典に国書(日本で書かれた古典)を用いてもよい、とある。
どうも首相の意向のようだ。
元来、中国の古典に限っていたものにわざわざ日本の古典も含めるということ自体、もう日本の古典を用いてほしいという意志を感じる。
愚かなことだと思う。
女系天皇に反対を唱えていた人と同じとは思えない。
こういうことを言い出すから軍国だの右翼だのと言われるのだ。
誇りと田舎自慢の区別がついていないのだろう。
そもそも日本の元号は、少しの例外を除いて全て中国の古典に出典がある。
例外は、出典がないものばかりだ。たとえば、現在の関東で銅がとれたから和銅など。
この中国の古典というのは、基本的に経書(儒教の経典)あるいは史書だ。
つまり人間のあるべき理想(現代的には首をかしげる内容もあるが)に近づけるように読む書物からだ。
また、ほかには文選からもよく採用されている。
これは名文のアンソロジーとして必読とされている。
たとい李白や杜甫であろうと個人の詩や文集からとられることはない。
また、仏典や地理書などから採用されることもない。
間違っても西游記・水滸伝や金瓶梅などから採られることはない。
さて、では日本の古典はどうだろうか。
一応、日本の漢文古典籍と区切っているが、はたして古事記や万葉集のようなものは漢文と認めるのか。
それ以外では六国史や懐風藻と凌雲集など勅撰三集(のこりは文華秀麗集と経国集)、菅家文草など個人の文集以外にない。
史書はあるが、経書はない。これはそもそも儒教が中国のものである以上当然なのだが。アンソロジーもいわゆる文章習得に用いられたようなものはない。
また、江戸期の著作などをどう扱うのか。つまり「古典」をどう定義するのか、という問題もある。
ちなみに、過去の元号では中国の明清期の著作からは採用されたことがないことも参考になるだろう。
だいたい、元号に限らず慣習や伝統というのは、不合理で不便なものである。
しかし、その不合理や不便に勝って優れているところがあるものなのだ。
もし、真に不便以外になにもないのであれば、その時は廃止されるだろう。
今回の元号で言えば、中国古典からしか採用していないことも意味があるはずだ。
いっときの政治状況で、中国憎しまたは日本のものは日本でまかなうべき、などということは理由にならない。
最終的には中国古典から採用されるようにも思えるが、新時代を形容する元号名にケチがつくようなものだけは採用しないでほしい。