豪華な素材のコンビニ弁当

宮城谷昌光の呉漢を読んだ。

不思議な感じがした。

文章は上手だし、すらすらと読めるのだが、つまらなかった。

元々史料を読み込み、丁寧な文章を書く作家ではあった。同時にきちんと理想を持っており、小説にもそれが反映されていた。

この理想が問題で、具体的にいつからということは分からないが、察するに最初からずっとそうだっただろう、全ての小説が同じになってしまっている。

具体的にはこうだ。

まず、主人公の若者がいる。身分や状況は様々だが必ず周囲に忠告をしてくれる大人がいて、彼はその忠告に耳をかす。すぐに生かせなくても精神的に人間的に成長していく。また、忠告してくれる大人がいなければ、彼に皮肉や嫌がらせあるいは敵対した者から、まるで自分以外全てわが師とでもいうように学んでいく。

そして、大小は問わず、きっかけをつかんで出世していく。

というパターンだ。

この呉漢もそうで、ネットで読んだある方の感想は(この方は賞賛していたが)上巻では呉漢の人間的な成長と出世について、下巻では呉漢が関わった戦争についてクロニクル的に書いてある、とあった。

つまらないのは、結局この成長や出世がすべて主人公の生きる姿勢がまっすぐだったから、となっているところである。

儒教的なと言おうか、中国的と言おうか、要は結果論に理屈をつけているだけなのだ。

例えば、呉漢でも、彭寵を裏切り光武帝に従属するのは天命に沿う良い裏切りだが、隗囂が光武帝を裏切るのは時流が読めない悪い裏切りと解釈している。

つまり程度は違えど、成功したら天命に沿い、失敗したら悪いということだ。

宮城谷の作品ではないが、例えば明朝が滅びる原因を洪武帝が虐殺したから天が滅ぼしたとある。

宮城谷の作品もこういう思考なのだ。

周代などを舞台に書いているときは、面白かった。特に短編は。

しかし、香乱記や劉邦など漢楚戦争以降の作品はつらかった。三国志などはまだマシだったが、劉邦光武帝は同じテーマで何作も書いている分だけつまらなかった。

次作があるのかわからないが、正直もう読むかどうかわからない。

湖底の城も気になっていたが、どうしようかな。

だんだん小説家某のように、テーマは気になるがつまらない作家になってきたように思える。