芥川龍之介「英雄の器」

芥川龍之介の「英雄の器」を青空文庫で読んだ。

ショートショートと言ってもよいほど短い。

 

項羽を討ち取った日の夜、劉邦軍の酒宴が舞台。

 

その宴会で呂馬通が項羽論をぶっている。

項羽は、つまるところ英雄の器ではない、と。

途中から劉邦が、呂馬通にあいづちをうつ。

しかし、最終的に劉邦は、項羽は英雄の器だったと断じて終わる。

 

なぜだろう。勝利の宴会が舞台であり、作中に

 十人あまりの顔が、皆まん中に置いた燈火の光をうけて、

とか

 どれもいつになく微笑を浮べている

など明るい描写があるにも関わらず、陰鬱な印象をうけた。

もちろん個人的な感想なのだが、大敵を討って自軍の前途が開けるような晴れやかな印象は全く受けない。

むしろ、自分たちの主人である劉邦とは違った意味で、巨きな人物を亡くした憂いや後悔を酒で無理矢理抑えているようにすら思える。

そこに場違いな呂馬通の演説だ。

 

哀れでもあり滑稽でもありざまをみろとも言いたくなるが、結局項羽を下げることで、自分の主(劉邦)を持ち上げた呂馬通は、誰あろうその劉邦に否定されてしまう。

これはつまり劉邦も英雄である故、英雄は英雄を知るということであろう。残念ながら英雄ではない呂馬通はその意味で、項羽の英雄たることを見抜けない、小人として描かれてしまう。

 

読者は劉邦の数少ないセリフ、ほとんどあいづち、を通して、

一、英雄の器とは何か

一、項羽は英雄の器であったのか

一、劉邦項羽に対する想い

一、歴史の中で項羽を失った(項羽を討ち取った)後の劉邦の行く末

などを考えさせられる。

恐らく項羽その人は、歴史上割といるむやみに戦争に強くカリスマのある貴族の青年であろう。しかし中国史上、覇王といえば項羽となり、それこそ民族や文字の名前になるような帝国の創始者である劉邦を語る上で、必ず項羽と劉邦というようにセットで語られるような人物になる。

それは皮肉な目で見れば、史記項羽本紀があるためである。それも、そもそも講談などで項羽の描かれ方が美しい生きざまの英雄としてであるから司馬遷項羽のことを好きになっていたのであろう。

項羽は垓下で死んだ。

しかし、死んだことにより、中国人のいう青史に名を残して、永遠の命を得たのだ。

 

芥川の「英雄の器」に戻ると、

劉邦の「独り言」の(ような私には不機嫌なようにも感じる)ようなセリフからは、運命が用意した半身を失った劉邦の悲しみであり苛立ちを感じる。

読者として悲しいのは、劉邦がその半身を失うことすら運命であること。そして、劉邦にとっては項羽はかけがいのない半身であり大敵であって、項羽に勝っても負けても劉邦は大事ななにかを失うであろうことだ。

更には、逆の場合、つまり項羽にとって劉邦の存在とは、大敵であったり運命の半身であったりするのかというと、恐らくそうではないであろう。これは劉邦項羽の年齢や出身(劉邦は農民、項羽は楚の貴族)などにも起因するであろうが。その劉邦からの、ある意味で片想いのような関係も、読者の胸を痛めるのであろう。