車内という連続的な場で、心に浮かぶ想起は非連続である

北部へ行った。

帰りは19時過ぎ。

すでに暗い。夏が過ぎ秋が来つつあることを実感する。

帰り道、街灯もない区間もある。

車のヘッドライトしか灯りのないところを走っていると、

ふと我が人生の来し方を想う。

さして特筆すべきこともないが、しかし微々たることはあった。

人生の走馬燈とはかくの如きか、とおもうほどに静かに想い出に耽った。

対向車のライトも人生の区切りを示すアクセントのようにも思えた。

車は南下してきて中部に入る。

すると、明かりもちらほらと見えるようになる。

不思議なことだが、その途端、頭に浮かぶのは人生の来し方ではなく、今まさに抱えている様々なことになった。

或いは自分の生活における困難、或いは職場の問題など。

想い出から現実に引き戻され、自分には対処できない種々のことを考えるのにも疲れたとき、疑問に思った。

なぜ暗闇の中では今までの人生が去来したのに、明かりが見えた辺りで現実に戻ったのだろう、と。

おそらく、あの暗闇は、あの世に近かったのではないか。

海沿いを走っていたことも手伝って、ますますこの世とあの世の境界になっていたのだろう。

いや、何もオカルト論を語りたいのではない。

妖怪や神隠しなどの怪異譚はこのような暗闇から生まれたのであろうな、と思ったのだ。

暗闇の中で、ふと、

 この状況、世にも奇妙な物語の「回想電車」のようだな

と思い、すぐに暗い海をみて杜甫の天地一沙鷗と、若山牧水の空の青にも海の青にも染まらな白鳥(鷗)が連想された。

この世とあの世のはざまが私は嫌いではない。