アイデンティティと自国愛

近頃、蓮舫議員の二重国籍問題が騒がしい。
議員が二重国籍状態で他の国の国籍を持っていることは、私の常識ではありえないが、そこは措く。

 

蓮舫議員は日本のパスポートを手にしたとき悲しかったとか、自身のもう片方のルーツである中国語を話せないことがコンプレックスであったとか書いている。
インターネット上での蓮舫議員への批判、というか非難のコメントの中に「海外で育った日本のハーフが、日本語を話せないことや日本文化を知らないことにコンプレックスに感じるのを聞いたことがないのに、日本で育った外国のハーフはみな日本以外の言葉や文化にコンプレックスを感じやがる(以下、ハーフを排斥しろとのご意見、略す)」というのがあった。
なるほど、言われればそんな気がする。
しかし、その原因もわかる気がする。

 

海外では恐らく「外国」の血をひいていることや、「外国」暮らしをしたことはさほど問題にはならない。むろん全ての国や地域でそうだ、とは言えないだろうが、一般的な話として。
問題になるとしたら、「外国」のところに具体的な国名や属性が入る。たとえば、〇〇人の血をひいているとか、宗教が〇〇である、とかである。
つまり、海外では「外国」との混血はたいした話ではないのだ。
当然、いつまでも帰属しようとしない者はイジメられる可能性がある。

 

ひるがえって日本はどうかというと、「外国」であることが問題となる。たとえどんなに日本で生まれ育ち、日本語が上手で日本文化に通暁しようとも、「外国」人なのだ。小学生や中学生のときならイジメにもあうかもしれない。

人間、小さい時にうけるイジメは確実に暗い影響を残す。また、つらい時にふと、日本ではない方のルーツ(の国や社会)ではこんなバカなイジメはないんだろうなと思ってしまうことも多いだろう。
念のため書いておくが、どこの国でも大なり小なりイジメはある。しかし、日本で育っているということは、もう一つの国で学校に行っていないということだ。

基本的には周囲には親戚など、自分にとっての味方とばかり接することになる。

当然、イジメられることは少ない。

 

そこへもって、不思議なことだが、日本では国際協調を尊ぶから、長じて自分が外国(多くの場合はもう片方のルーツ)との架け橋になろう、と思うようになる。そして日本語しかできないことにコンプレックスを感じるようになるのだ。

 

蓮舫議員を応援する気はさらさらない(政治的な考え方がまるで私と合わない)が、彼女が日本をあまり好きでない、少なくとも台湾や中国の方が好きだというのはとてもよくわかる。