新羅第二代

国史記を読み始めた。

まず驚くのは、三国すべてに本紀があることである。中国との関係上ありえないことだ(といいつつも三国史記が存在しているのでありえてるわけだが)。また、三国のうちどれか(新羅あたりかな)だけに本紀を作り、他の二国は伝にするという三国志方式もとっていない。

 

順番に新羅本紀から読んでいく。初代、赫居世居西干はいい。

二代目の南解次次雄の記事が気になる。

この王の治世は始祖廟を作ったことと、脱解を娘婿にして大輔に任命したこと、北溟の人が濊王の印を見つけて献上したこと以外は、日食、旱魃、蝗害、飢饉、疫病の流行、異常気象(冬に氷がはらなかった)などろくなことがない。

しかも王都である金城も二度包囲されている。

王の十一年の金城包囲は、たとえ古代であっても、意味がわからない。

 十一年(一四)、倭人が兵船百余隻で海岸地方の民家を略奪した。〔そこで〕六部の精鋭を動員してこれに当らせた。楽浪は新羅国内が手薄だと考え金城を激しく攻撃した。その夜流星が賊の軍営に落ちたので、彼らは恐れ戦いて退却し、閼川(慶州市の東川)のほとりに陣をはり、石積み二十個を作って退却した。六部の兵一千人がこれを追撃して、吐含山の東から閼川に来たが、これらの石積みを見て、賊軍が多いと思って追撃するのをやめた。   三国史記1、井上秀雄訳注、平凡社東洋文庫より

疑問だらけだ。倭人は撃退できたのだろうか。結局楽浪は勝手に侵入して勝手に引き上げたわけだが、楽浪は何人ほどで来たのだろうか。六部の精鋭とはいえ千人ではどうしようもない人数だったのだろうか。

実在したとも思えない王だし、脱解(昔氏)王統へのつなぎの役割なのだろうけど、いいことが余りにもなさすぎて可哀想になってくる。

父母は二聖と称され、息子の儒理尼師今の治世も悪いことだらけではない。

なにゆえ南解だけこんな目にあったのだろうか。しかもまだ二代目なのに。

ただ地味なだけの(玄人受けする)二代目なら、後世いくらもいる日本だけでも義詮しかり、秀忠しかり。しかるに南解次次雄は、、、、不憫だ。