読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

さらば、わが愛 ~覇王別姫~

さらば、わが愛 ~覇王別姫~を観た。何度みても良い。観るたびに発見がある。この発見は映画について、というより自分の心について、だ。

引っかかったり、グッときたりする場面で、なぜにそう感じたかが、毎回微妙に、時に大幅に、変わる。以下、今回気になった場面の羅列。当然だが、書いていない場面に何も思わなかったわけではない。
老師匠(関氏)が有名になった小樓と蝶衣を打擲する場面と、共産党の世になった後、蝶衣が小四を打擲し、小四が出てゆく場面。この両場面を比較すると、小四の言葉ではないが、時代が変わったことを意識せざるを得ない。
うまく書けないが前者が史記なら後者は漢書だろう。
場面場面で心に響くものがある。
最初の京劇一座の鍛錬風景で、脱走した少年たちが当時の名優を観て涙する。そして「彼は名優になるまでに どれだけ殴られたのか 何度 打たれてもいい おれも ああなりたい」と述べる。
日本軍が負けた後、国民党の連中に、観劇中は懐中電灯を点灯させるなと注意する場面。
自己批判をさせられる場面で、小樓が蝶衣を糾弾しだしたときの、菊仙の表情。この映画を観る度、ここで胸が詰まる。そのあとで蝶衣が小樓も菊仙も糾弾することと相まって悲しくなる。
フラグといえばそのままだが、菊仙の夢の話、自己批判中に小樓が「不愛、真的不愛」を繰り返すところで、そりゃ自殺するよな、と思う。しかも婚礼の衣裳を身につけてだ。下手なホラーよりも恐ろしく且つ哀しい。
蝶衣も小四もそうだが、虞姫の化粧をしたときに、舞台上では女に見えるのに、楽屋など舞台以外では化粧した男であった。しかし、前半では舞台以外でも蝶衣は化粧していれば女(虞姫)に見えた。小四がそうでなかったので、若いからというわけではあるまい。不思議なものだ。
また、文革で糾弾される場面で、小樓の首からかかってる板が「段【日に戔】楼」となっている。スタッフロールや字幕では段小樓だ。なぜだろう。馬鹿な紅衛兵を隠喩しているわけではあるまいが。
最後に恐らく自刃した蝶衣に気付いて、小樓が「蝶衣」と叫んだのち、落ち着いた声で「小豆子」と呼びかける。この時、彼に去来した気持ちがいつも掴みきれない。
どの役も素晴らしいが、特にコン・リーが素晴らしい。後半、彼女の存在が画龍の点睛であった。DVD特典でレスリー・チャンのインタビューがあり、彼が英語で話している。驚いたが「程蝶衣」の発音が中国語で話している時と違った。正確に表現できないが中国語の時は「テイエー」と澄んでいたのが、英語では「デーイー」となっていた。
蝶衣の幼年時代を演じていた子供の表情、特に眼が一歩間違えるとホラーになるほど力が強い。