少年はいつか大人になる…

図書館の主11巻を読んだ。
泣いた。さめざめと泣いてしまった。
別にストーリーに、いわゆる悲しいところはない。強いていえば寂しい、か。
11巻のテーマを名付けるとしたら、成長、だろう。
都合3つの話が収録されているが、2つ目の翔太の成長物語で泣いてしまった。
要約すれば、
翔太は、児童書では物足りなくなってきて、いわゆる大人の本を読みたくなってきた。つまりタチアオイ児童図書館の蔵書では物足りないということなのだが、それを翔太は自分にとって「タチアオイ児童図書館」が不要になってしまうということと、無意識のうちに混同する。そして他の図書館の良さに気付きつつも、そう思うこと自体がタチアオイに対しての、それはつまり翔太自身に対しての裏切り行為であると思い込んでしまう。
無論、作品中で翔太はタチアオイや児童書を切り捨てることなく成長していく。

翔太にとっての児童書は、誰しも持っているものであろう。有名なのはスヌーピーのキャラクター、ライナスの毛布だ。
大急ぎで補説しておくが、ライナスの毛布は移行対象であろうが、翔太の児童書は移行対象ではなさそうだ。
が、描かれ方というか、受け取る方の問題というかライナスの毛布を連想してしまうのだ。そして、翔太が成長したとき、移行対象を必要としなくなったように思えるのだ。

筆者が泣いたのは感動のためではない。
翔太が大人の本という次の段階へ上がるときに、児童書を自分の「一部」にした。
この成長は素晴らしい。もちろん手放しで素晴らしい。
しかし、やはり一部になってしまい今までのように顧みられなくなってしまう児童書のことを思うと悲しくなるのだ。
筆者自身にも多くの児童書や毛布がある。それらについて思いを馳せてしまうから悲しくなったのだ。
けっして感動のためではない。

物語、特に少年のためのジュブナイルものではこのような移行対象が、しばしば主人公の周りの大人や友人として現われる。彼らとの別れが悲しいのも、つまり彼らが物語上、顧みられなくなることを知っているからであろう。

 

作中、御子柴が宮本に尋ねる。
「トム・ソーヤやハックはどんな大人になったと思う?」
宮本がそれにこたえ、それにまた御子柴がこたえる。
物語の主人公たちが物語の後「どんな冒険をしてどんな大人になるのか想像するのも楽しいと思わないか
まあこれは大人しか出来ない楽しみ方かもしれんな?」
そうか、筆者が悲しくなったのも或いはそういうことか。