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閉架書庫のリストを置け!!

今日は県立図書館に行って、昭和天皇実録を借りてきた。

内容については、これから読むので、特に今記すことはない。

気になるのは図書館の運営態度だ。

昭和天皇実録は閉架書庫(以下、閉架)に入っていた。所在は機械(パソコンなどネット)で検索できる。表現をかえると、機械検索以外で探すことができない。

つまりはっきりと、この本があるかどうかを調べたい時にしか所在が分からないのである。

開架書庫(以下、開架)では棚をブラブラしていれば、こんな本があるんだ、などという感じで所謂本との出会いがあることもある。また、開架に並ぶ新所蔵図書・資料はリストアップして紙に印刷して、カウンターなどに置かれている。

しかし、閉架に入った図書についてはそれがない。

閉架に入る図書は、開架から閉架に移されるものと最初から閉架に入れられるものとがある。

しかしどちらも前述のように紙に印刷して閉架に入っていることを、利用者に知らせてない。まだ開架に並んでいたのに見当たらない場合は、或いは図書館員に尋ねるなり機械検索するかもしれない。しかし、既に開架に並んでいたことを知らない人にすれば、その図書は最初から閉架に入れられた図書と変わらない。変わらないというのは、つまり存在しない図書と同じなのである。

県立や市立など公立図書館の役割があいまいであり、そこがはっきりしないと何ともいえない部分があるが、もしも図書館の役割に市民と本との出会いの場をつくる、というのがあるならば、閉架の所蔵リストを見える場所に置いておくべきであろう。

図書館側は、機械検索できるというであろうが、機械検索では未知の本と出会うことは、あまりない。あまり、というのはキーワード検索や検索結果の中で最初に読んでみようとした本以外にも手に取ることがありうるからである。もっとも可能性は低いだろうが。

べつに閉架の所蔵リストを製本する必要はない。2穴ファイルにでも綴じておけばよいであろう。

また、偶然であろうが、昭和天皇実録は寄贈による収蔵であった。

寄贈されたはいいが、本が本なので政治的な判断で即閉架行きになったのではないかと邪推してしまう。リストがないということはこのように、図書館(員の一部)にとって都合の悪い本を市民の目に触れさせないことにも利用できる可能性がある。しかし、機械検索できる以上、市民の利用を閉ざしていないという言い訳もできる。

戦前の思想善導機関としての歴史を反省して図書館の自由に関する宣言を打ち出したとウィキペディアにある。そのことは素晴らしいが、どうも戦前とベクトルが逆になっただけで思想善導機関となっている感じがする。

筆者の思い過ごしであろうか、昭和天皇実録だけがたまたまであろうか。