4月1日に新聞が自紙に都合よく一般的なことを特殊化したり、逆に特殊なことを一般化してると書いた。
それにもう一つ加えたい。
新聞名は伏せる、、、意味もあまりないが一応。
中国の方で家譜(略伝のついた家系図)を調査したという記事だが、わたしの書きたいことと記事の内容は直接関係ない。
問題はふりかなだ。
梁嵩という人名の嵩の字に「こう」とふりかながついていた。つまり「りょうこう」と読ませていたわけだ。
、、、、
あのねえ、ふりかなは読者が読めない、或いは読めないとはいかなくとも読みにくいであろう漢字につけるものだ。当然、その読み方を教えるものである。
それが間違えた読み方をふるようではふりかなの意味がない。
しかも今回の間違いは非常に悪い。
間違いに良いも悪いもないようだが、キーボードを打ち間違えたとか、同じ記事の中でふりかなが一つずつずれているとかならまだ許せよう。
しかし、嵩(もちろん音読みはスウ、まれにシュウ)をコウとふったのはそういう間違いではなく、記者が嵩はまぎれもなくコウと読むと思っているのだ。
おそらく嵩の下の部分に高がはいっている、だから同音でコウと読む、とでも思ったのであろう。
このように部首に引っ張られて間違った音読みをすることを百姓読みなどという。間違った読みが正しくなってしまったものもある。
洗滌をセンジョウと読むのもそうだ(正しくはセンデキ、滌の條に引きずられてジョウと百姓読みされた)。
新聞社は社会の木鐸だとか、言論の自由とかご大層なお題目をいう前に、
間違ったことは書かない。政治的思想的に間違ったというような意味ではなく、単純に事実として、という意味。たとえば琵琶湖があるのは滋賀県か佐賀県かなど。
知らないことはもちろん、たとえ知っていても念のために辞書や図鑑などで調べること。インターネットでも調べることはできるが、ふつう誰が書いたかわからないので書籍などが望ましい。
万一間違えたら素直に謝罪する。
ということを実行してほしい。
自分の書いた記事について、本当に理解しているのか怪しい記事が多すぎる。
特に学術記事にそれが多い。
ここまで書いて気付いたが、新聞を学校教育(おもに小学校)に取り入れようとされている。しかも入試にも新聞の社説を使おうという大学も少なくない。
さきにも書いたが、各紙の意見・主義・主張は自由に唱えればよい。
しかし、間違ったふりかなをつけるような新聞を使って教育するのはいかがなものであろうか?
まさか間違い探しをさせて、将来古典の校正ができるように訓練しているとでもいうのかしらん♪