体調が思わしくないので仕事を休んだ。
昼食を食べつつ、「ゼロ・グラビティ」を観る。
息詰まる展開の連続。緊迫感がすごい。
これは映画館、できればiーMAXシアターで観たかったかも。
サンドラ・ブロックはやはりメンタルが弱い役。といっても宇宙飛行士だから一般人よりも強いはずだが、、、
女なのにライアンという男性名をつけられ、娘を亡くしているサンドラ。男性名の理由は父親が男の子を欲しがったから。
つまり作中のライアンは天涯孤独であり、娘(サラ)の死をひきずっている。
ジョージ・クルーニーはそれと対照的。陽気でおしゃべりで常に前向き。諦めることを知らない。まさに宇宙飛行士。
とはいえ、クルーニー、、早い!!
早過ぎる!!!
後半でまたクルーニーが出てくるのだが、あれはなんだったのだろう?
ストーリー上の不満ではない。むしろ一瞬、まさか、いや、そんな馬鹿な♪?と思ってしまった。
解釈の問題である。幻覚かあるいは幽霊なのか。
疑問もある。
サンドラが中国の宇宙ステーション「天宮」ついで宇宙船「神舟」に避難し乗り込む。最終的に地球には神舟で帰ってくる。
国際宇宙ステーションはともかく、中国(ライアンからしたら外国)の宇宙ステーションや宇宙船に入れるものだろうか。作中では中国人宇宙飛行士は天宮におらず中国に許可をとる描写もない。もっともその時はヒューストンにも連絡がとれず、延々とライアンからの一方通信であったが。
また神舟のコントロールパネルが全て中国語であった。作中ライアンが中国語が読めないため、勘で操作するシ-ンがあった。どうなのだろう?中国の宇宙船であるから中国語で表記されるような気もするが、ああいう国際的なものは英語で、または英語と現地語併記ではないか、という気もする。
車のギア表記やパネルを想像すればよい。
現物をみたことないので正解はわからないが、どっちなのだろう?
タイトルについてだが、原題は「GRAVITY」。
邦題の「ゼロ・グラビティ」だと逆の意味になってしまう。これは監督はどう思っているんだろう?
推測するに監督は地球に帰って来たライアンが重力を感じることで、帰還したことを実感し、同時にこれから頑張ろうと決意することに焦点をあてたかったのだと思う。
しかしゼロ・グラビティでは宇宙空間の方がメインになってしまう。たしかに映画の場面的には宇宙空間の脱出劇が主ではあるのだが、、、、どうなのだろう。
画面にグイグイ引き込まれる。最初は別のウィンドウでネットをしながらみていたが、気づけば全画面にして夢中で観ていた。
そして最後の最後で(根拠のない)元気というか、前向きさというかをもらえた気がした。
漫画「機動戦士ガンダムUC 虹にのれなかった男」を読む。
ブライトが主人公。ではあるのだが、アムロ、カミーユ、ジュドーそしてシャアも主人公であるといえる。
ブライトが騙されて軍の秘密聴聞会にかけられる。そして一年戦争のアムロから順次ブライトのみてきたニュータイプについて、ブライトが回想していく。
ブライトが変わらない現実(「大人」の政治)に絶望しつつ、といって自分で現実を変えることもできない。そこでニュータイプの若者に期待する。そのニュータイプが悲劇的な最後を迎える。この繰り返しである。
それぞれのニュータイプの最後は、アムロが一度目は現実に絶望、やる気を失う。二度目が(おそらく)死亡。カミーユは精神崩壊。ジュドーは生きてはいるが地球を(事実上見棄てて)木製へ行く。シャアは自分が「大人」を演じても何も変わらない現実に絶望し、「大人」を演じることをやめついにはネオ・ジオン総帥となる。その後はアクシズ落としを決行し、アムロとともに行方不明となる。いずれも共通するのは、ブライトから「心がどんどん遠くなってゆく」(p98)
ブライトはオールドタイプではありながら、ニュータイプをみつめ続けた。しかもきちんとした職業軍人であり、ある意味で主人公たちのなかでほぼ唯一の「大人」である。そんな彼も外からみれば、まだ「大人」ではなかったのであろう。
賢しらなことを書きたい衝動があるが、我慢する。
ただ聴聞会から解放され、空を見上げたブライトの心の台詞
「ああ…」
「オレは
行けないんだな」
「おまえたちと
一緒には――」(p192)
そして凛々しい、まさに「大人」の表情になり、虹のかかる晴天を歩いていく。
この場面が素敵すぎる。題名からもわかる通り、この虹はニュータイプであろう。そしてブライトはニュータイプを理解し援助する者ではあっても、あくまでもオールドタイプであるのだ。
裏表紙に「MOBILE SUIT GUNDAM UNICORN Bright Noah Story」とあるようにブライトの物語として読むもよし。1年戦争から逆襲のシャアまでの総集編として読むもよし。