訃報

陳舜臣が亡くなった。90歳。

 

ここ数年は新聞連載や単発エッセイがメインで新著はでてなかった。だから、新作を読むことはなかった。

昨年末にふと「中国の歴史」を読み返しはじめた。まさかそれからひと月もしない内に訃報に接するとは。

 

自分をつくっている基礎が抜けたように感じる。悲しみもあるが、それ以上に寂寞感や寂寥感がある。

自分の興味・知識・考え方の中で根っこに陳舜臣があることは少なくない。

 

父や伯父に「阿片戦争」を薦められ、中高生のときは「中国の歴史」と「録外録」を文字通り本がボロボロになるまで読んだ。また、高校一年生のときに「耶律楚材」をハードカバーで買い、読んだ。

今、陳舜臣の作品一覧を見ると、漢詩集とルバイヤート以外はすべて表紙や内容が思い出される。

陳舜臣がいなければ、おそらくいまだに知らないままの人物も多いはずだ。上記の耶律楚材、薩都刺、高仙之、謝名親方鄭ドウ【同にしんにょう】などなど。

陸游や元好問が好きになったのも、陳舜臣のおかげだ。元好問についてはついに中州集まで読んでしまった。

雑誌のエッセイでは、台湾での教師時代の体験をふまえた教育問題への雑感と、琉球王朝時代から今の沖縄および沖縄以外の日本への激励と提言はいまも大事にコピーを保管している。

書き出せば、思い出は尽きない。繰り返し読んだ作品は、その都度思い出ができた。小説作品は言うに及ばず、エッセイの妙味や感想などは更に尽きない。

おそらく全国に自分のような人がいくらもいるだろう。

 

生きていてくれれば、出ないかもしれないが、しかし、もしかしたら新しい文章が読めたかもしれない。だが亡くなった今、確実に新たな文章はもう読めない。

陳舜臣の淡白でありながら、多くのことが凝縮された滋味あふれる文章がもう読めない。

 

これからも折に触れ、陳舜臣の文章を読み返すだろう。そうすることで、今日開いた心の穴は埋まるのだろうか。それとも陳舜臣はもう亡いことを意識して埋まることはないのだろうか。

 

本来の意味と違うことは承知の上で、日本的な用法として、

氏の冥福を祈る。