進撃の巨人 実写映画化 原作者の脚本家に対する(一方的な)愛情

序章 「あなたが始めた物語」

 映画評論家の町山智浩が雑誌に、次のようなことを書いた。

  原作通りの映画化は無駄。原作通りなら映画化する意味がない。

 それを読んだ若き日の諫山創が感銘を受ける。

 

脚本家選定 「あなたに決めていた」

 進撃の巨人が大ヒットし、実写映画化の話が出る。諫山は実写化にさいして、ひそかに心に決めていることがあった。

  脚本は愛する町山さんに書いてもらいたい

 

 諫山は町山を初恋の人として挙げており、あるイベントでのイラスト大喜利で、「初恋の人」という題に、他の人たちがアニメの女性キャラや、本当の初恋の人(当然会場の人たちにとって知らない人)などで笑いを取る中、町山智浩を描いて爆笑をかっさらった。しかし、これは果たして諫山にとって冗談であったのかどうか、、、。

 

イベントで発表されたイラスト大喜利のイラスト


 諫山は町山の自宅を訪れた。まず、なぜ町山の住所を知っていたのかが分からない。

 どうも担当編集者といっしょに町山を訪ねたようだ。

 実写化する進撃の巨人の脚本を依頼した。町山は、自分は脚本家ではないのでと辞退した。

 その後、諫山は町山宅を合計4回訪れた。訪れるたびに帯同する講談社の社員の肩書が上がっていったらしい。そして、この町山詣での間、漫画の作業は止まっていた。

 諫山が町山をどう口説き落としたのか、詳細は発表されていないが、どうも

  町山さんが引き受けてくれるまで、僕は何度でも来ます。たとえ原稿をおとしてでも。もし、町山さんがどうしても脚本を書いてくれないなら、実写化の話はなかったことにします。

 という自爆テロのような脅迫があったとか、もっとやんわりとしていたとか。

 結局、町山は脚本を引き受けた。

 町山が承諾したとき、諫山が連れてきたのは講談社の社長だった。

 

脚本提出 「あなたが昔書いていたことですよ」

 町山はきちんと脚本を書いて、わりと原作に忠実なものを提出したらしい。

 それを読んだ諫山は、

  こんな原作通りの脚本じゃダメです。原作通りなら映画化する意味がないって町山さんが書いていたんですよ。

 と却下した。

 そして、町山は諫山の要望通り、キャラクターの性格やエピソードどころか、時代設定もなにもかもをすべて改変した脚本を書き直した。

 

試写会 「あなたに決めてよかった」

 映画は、脚本に忠実に完成した。それはつまり、原作とはタイトルと巨人が出ること以外ほぼかすりもしない作品になったということである。

 その評価は、よくあることだが、原作を知っているかどうかや、原作の映画化としての評価か、そういう前提をはずしてひとつの映画としての評価かなどで異なる。

 なので、ここでは評価は書かない。ただし、この映画は、繰り返すが、原作改変というレベルではなく、原作にはかすってもいない作品としてしあがった。

 試写会の様子はお通夜のようだったらしい。映画の効果音やBGM、台詞以外は静寂だった。もちろん映画を見る時は静かにするのがマナーだが、そうはいっても場面によって笑い声、驚きの声、あるいは涙やすすり泣きなど声がでることはあるものだ。

 それらが一切なかったらしい。一人を除いて。

 その一人はもちろん原作者の諫山創だ。終始笑っていたらしい。

 

後悔いや公開 「あなたは僕のものですよ」

 公開した映画は予想通りの評価だった。

 町山はしかし、立派だった。あれは原作者のリクエスト通りだ、おれは悪くないなどと逃げずに自分の脚本が悪かったと認めている。

 ちなみに、その年の、雑誌『映画秘宝』の「今映画界で一番死んだほうが良い奴」というアンケート企画で、町山は

  自分

 と回答している。

 

 さらに、諫山は最初、町山に

  町山先生はご自身が、進撃の巨人のキャラクターだと、誰に似ていると思いますか?

 とたずね、町山が、ジャンとこたえると

  じゃあ、ジャンを主人公にして脚本を書いてください

 と言い出し、町山を困らせている。

 諫山は、ジャンを映画の主人公にすることを断った町山の態度には不満だったようだ。

 

 映画公開後の雑誌インタビューなどでも諫山は様々なキャラクターには町山先生の成分が入っています。と昭和なら純愛で済まされたであろう人たちのような発言をしている。

 あげくに自身の漫画に次のようなコマを描いている。

誰かに姿や境遇が似ている巨人

 

司馬遼太郎の小説

まとめサイト司馬遼太郎の小説を史実と思うやつについて云々という記事があった。

 

司馬遼太郎の死後、彼の小説のことを史実と思う人や、その歴史観司馬史観)を是とする人のことを非難することを目にすることが多くなった。

彼の存命中にも多少はあったが、その死後とみに増えたように思う。

 

私はこの批判をする人たちがあまり好きではない。

もちろん、司馬の作品が史実とは異なる(ものによっては大いに異なる)ことは分かっているし、小説を史実と思って語る人たちのこともどうかとは思う。

しかし、司馬批判をする人たちはどうも死体蹴りというか、反論のこないことが分かっていてやっているような感じがするのだ。

 

また、主に2点が気になっており、

1点は司馬作品が発表された後の研究の進展によって、結果的に間違いになったようなこと。たとえば、北条早雲斎藤道三の出自についてなどだ。

司馬が作品を出した当時の研究で語られていたことや通説は現在では否定されていることが少なくない。それを取り上げて間違いだのウソだのと批判するのはどうかと思う。

もう1点はそもそも小説は歴史学のテキストではないということ。過去には歴史と文学はきれいに分かれておらず、物語がそのまま歴史であった。

有名なところでは、陳寿の書いた三国志(いわゆる正史三国志)の中に、諸葛亮劉表の息子劉琦と2人だけで会話して、他に誰もこの会話を知ることはなかった。とある記事などは、じゃあどうやって陳寿はこの会話の内容を書くことができたんだよ、と突っ込んでしまう。

さすがに現代の司馬作品をそのようなものと一緒には語れないにせよ、史実と違うからとけなす態度はいただけない。

なにより、小説や物語から史実に興味をもち、歴史学の研究にすすむものだっているのだ。

 

司馬作品は史実とは違うと鬼の首をとったかのように批判する人は、反対側の司馬作品はすべて史実通りで、学校の授業で教科書を廃止して司馬作品を使えと言い出す人たちと似たようなものに思える。ベクトルが違うだけで。

鎌倉殿の13人 壇ノ浦までをみて とりとめなく

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を、壇ノ浦の戦いまで見た。

 

放映当時、北条義時の闇落ちダークヒーローぶりが話題だった。

考えてみれば、闇落ちということであれば、アナキン・スカイウォーカーがダースベイダーになった物語があり、

闇落ちでもあるが、状況に対応していくうちに、元々望まぬ方向へ進んでしまった人物ということであれば、ゴッドファーザーのマイケル・コルレオーネの物語がある。

北条義時も、以前は陰険極まりない、非人間的で非情な自家の保存しか考えていない人物とされてきた。

 

また、木曾義仲の息子、義高を殺したのち、義高を討ち取った藤内光澄が死罪になったことを知った政子に対して、義時の台詞として

 われわれはもはやかつてのわれわれではないのです

というのがあった。

基本的に闇落ちしていくということは、変化をしていくということなので、かつてのままではなくなるということだ。

この大河のテーマのひとつが、北条義時の闇落ちであるなら、このかつてのわれわれではなくなるというのが、ストーリーの基底に流れ続けている。

上総広常の殺害や壇ノ浦の戦いなどは分かりやすく、変化の画期になるであろう。

 

壇ノ浦の戦いのあとで、明確に印象付けられるのは、

目標が達成されたのちの虚無感、またもはや引き返せないところに来てしまったという恐れと諦めなどだ。

これは日本人の好きなものなのであろう。

特に、滅びの美学的な、成功に対する潜在的な嫌悪感などで心の琴線に触れるのであろう。

司馬遼太郎坂の上の雲が典型的であろう。

苦労してようやくたどりついた坂の上から見えた景色は、のちに昭和の敗戦に続く下り坂だったというものだ。

壇ノ浦の戦い後に見えた風景は、あるいは様々な解釈もできるだろうが、もはや戻れないところに来てしまったというのは実感できた。

 

この大河ドラマで描かれている鎌倉時代初期の殺しあいが、妙に好きになれない、特に頼朝の視点では。

それは、新選組の粛清の歴史にも通じる。

つまり、殺すがわの都合はあっても、殺されるがわにとっては理不尽極まりないということだ。

例えば、いわゆる戦争であれば、殺すがわ、殺されるがわ双方に理由はある。もちろん殺される時に納得できるかは別としてだ。

ところが、粛清は理由ではなく、都合しかないのだ。

それが爽やかさを感じない原因であるし、殺されるがわの方に立っても悲劇にもならない。なぜなら、理由なく都合で殺されるのだから、通り魔にあったのと変わりがないからだ。

今更、君の膵臓をたべたいを読んだ

「君の膵臓がたべたい」を読んだ。

もはやブームも去ったため落ち着いて読める。

まず、文体が読みやすく、サクサクと読めた。

 

まず、単純な感想を列挙すると、

すごいなこりゃ。

予想通り泣ける。

ご都合主義。

いつの作品だっけ?

などだ。

 

まず、いつの作品だっけ?については、ヒロインのハルヒ感がすごかった。

そこで、涼宮ハルヒが出たあとの作品だとは思うが、どうだっけ、という意味だ。

ちなみに君の膵臓は2015年(平成27年)の作品であり、ハルヒの1巻は2003年出版だった。

また、平成中期から後期だな、と思うのは主人公とヒロインのキャラクターだ。

基本的に、ある段階までどちらも自分の考えを変えない。我を通すとも相手に感化されることに抵抗している場合もある。

しかし、主人公の根暗で自分勝手、腹が立つくらい人に気をつかわないなど、平成初期までなら、まず主人公にはなれない。

ヒロインも先にハルヒと書いたように、素直というよりわがまま、周りを振り回すタイプ。似ているヒロイン像として真夏の太陽のような芯のある精神的に自立した女性というのは昔からあるが、ハルヒ以降は芯があるというよりわがまま、真夏の太陽のように周囲に活力を与えるというよりは、砂漠の太陽のように周囲を疲弊させるタイプのヒロインが増えた気がする。といっても中高生に芯があり、精神的に自立して周囲を励ますヒロインを求めるのもどうかと思うが。

そして、この2015年は、不況の中で、一瞬だけそれまでより好景気になり、東京オリンピックまであと5年だったり社会に明るさが戻ったタイミングであった。むろん現在からみれば、それが回復につながらなかったのは見ての通りだったのだが。

学校現場も、主人公のようにクラスメートの名前をひとりも知らないなどという生徒が増え始め、それを堂々と口にするようになり始めたころだ。それ以前でも、そういう生徒はもちろん存在はしたが、それはおかしいというのが共通認識で、とても公言はできないのが普通であった。

ちょうどその過渡期で、主人公に設定するのによいタイミングだったのだろう。

 

文章については、先に書いたが、読みやすかった。

しかし、ある時期から内容を問わず、小説がワンテーマで読みやすいラノベ化が起きた気がする。もっともラノベの定義もぶれぶれではあるが。

文字数があれば良いわけではないが、せっかくお金を出して買うなら文字量も内容もスカスカなものは遠慮したい。

ただし、その読みやすさというかラノベ感が、高校生の一人称による心情描写ですすむ内容にマッチしていたともいえる。

 

物語の構成はとても良く考えられている。

しかし、よく出来すぎていて、読んでいて初期のRPGのように、無駄がなく、際立ったご都合主義が鼻についてきたのも事実だ。

もちろん物語の本筋に全く関係ないことを、バンバン書いていいとは思わない。それが持ち味になっている司馬遼太郎などは例外として。

とはいえ、あまりにも無駄がなく登場人物の登場も、彼らのふるまいもあまりにピタリとはまり続けていて、意外性がほぼなかった。作者の構成力にたいしての信頼が悪い方にあるというか。

そして、賛否や好き嫌いの分かれるのは、やはりヒロインの死因だろう。

そして、その死因についても驚いたが、それに対してさえきっちり伏線が張ってあったことにも驚いた。

 

むろん、物語の流れ上、予想通り号泣したし、同時にさめざめとも泣いた。

 

この物語は、先述のように主人公とヒロインの性格が、いわゆる普通とはかけ離れているので、爽やかな高校生の青春劇またはラブ・ストーリーとはとても言えない。

だからこそ、逆に普通の高校生や若者たちの心をつかんだのだろう。

あくまでラブ・ストーリーの文法では主人公はダメなやつだ。そしてヒロインも一般的な幸せな恋をしているとは、周囲からは見えない。

これはイタリア映画の「道」を想起させる。ザンパノとジェルソミーナの物語の一変種ではないか。

そう思ったら、この物語がストンと腑に落ちた。

 

現在(2023年、令和5年)の中高生たちはどう読むのだろう。

おなじく、将来の中高生がもし読んだらどう思うのか。少しく気になる。

 

物語の初期に主人公とヒロインが焼き肉の食べ放題を食べる場面がある。

すでにタイトルの膵臓を食べるの食べたいのということも台詞にバンバンでてくる。

さらに肉やホルモンを食べる描写のおいしそうなこと。

焼き肉かレバスタが食べたくなった。

なんとなく

どうにも年末から引き続き体調がよろしくない。

 

上のこととは全く関係ないが、年越しのときに

時報からの

にーっこ、にーっこ、どうが♬

というニコニコ動画の日付またぎの時報を思い出してしまう。

考えればあれほど観ていたニコニコ動画も、もう何年も見ていない

しかし、年越しの時は必ず思い出す。

音の記憶というのはすごいものだ。

 

なかなかツラい

8日に「セルグレイブの魔女」を読み終えた。

感想を書きたいが、8日の夜から便失禁祭りで、信じられないくらい漏らしてそれどころではない(これを書いているのは明けて9日午前2時28分、すでに6回も漏らしている)。

つらい

観終わった感動もなく

テンペストを見終わった。

最後までよく分からなかった。

孫寧温と尚泰王の子で、本来は王子になる孫明の台詞などはひどかった。

寧温の若い頃をなぞるように(実際に場面やセリフもまんま再現してなぞっていた)評定所筆者になった孫明が、尚泰に質問され、喜舎場朝薫の鼻をあかし、尚泰に明治政府に降伏し、琉球王国を終わらせることを決意させる場面で、孫明は

日本のような新興国は武力に頼り、最終的にみじめな敗北を喫するだろう、と

預言者でもあるまいし、連日書いているような、現代人の転生したような思考パターンの台詞のオンパレードだった。

そして分からないのが、最後の場面だ。

誰もいない首里城で、寧温が明を連れて正殿にいる。

そして、明にたいして玉座に座るように指示する。

それから始まる第三尚氏の即位式とやら、それから高岡早紀演じる聞得大君が来て馬天ノロの勾玉を渡して、琉球を守り続ける守護神となり昇天する。

正殿を出て、洋装の麻倉と再会し、思い出の琉歌をハモり、心がつながったところでエンディング。

もう何もかも理解ができなかった。

 

これは当分時代劇を見るのは避けようかな。

中国の抗日ドラマを笑えない。